A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

C2

1-4. 闇との葛藤

わたしは母との長い関わりの中で(母の闇として現れながら実は自分自身の)闇と向かい合って、最初は何とかそれを消滅させるか追い出すか、駄目ならばせめてその素性を変える道は無いかと葛藤しました。
しかし結果的には闇の持つ根本的な矛盾構造と理解を超えたパワフルさに直面し、エゴとしては認めたくない敗北を受け入れざるを得ませんでした。
自分の右手と左手による腕相撲ですから決着がつきません。闇によってわたしは破壊され、再構築への道筋を与えられたのだと言えます。
一般には光が闇を創り出すように思われますが、厳密に見るならば闇が光を創造するというのが正確な方向です。

闇のエネルギーから創出されるドラマは不可解で手に負えないように感じられます。たとえば自分の手で自分の首を絞めて「苦しい!」と訴えるようなパターンです。
誰かが絞めているならその誰かを排除する方法も模索できますが、そうではないので論理的に考えれば自分の手の力を弛めるしかないわけです。しかし闇は「それだけは嫌だ」と返答します。その固い決意はあらゆる説得をはねつけるだけのパワフルさを持って現れます。そこを頑張り所にするだけの理由が見つかりません。まるで理不尽で無駄な抵抗のようにも感じられます。
しかし苦しいと泣き叫び、懇願するように何度でも近づいてきます。苦しいのが望みであるわけではなく、一刻も早く楽になりたいのが主眼であることは間違いないようです。だからといって直接手を外そうとすれば、ますます強い抵抗とともに自らの首を締め付けてしまう。決して冗談でやっているわけでもないので、普通に考えれば、「何をしたいのか、どうしたらよいのか」となるでしょう。

しかしこのような展開は闇と向かい合うときには、むしろ普通であるくらいの覚悟が必要だと言えます。矛盾自体に突っ込んで正論を振りかざしても先には進めないことに気づきます。
矛盾していないわけではなく、矛盾自体が闇の本性だからです。だからもし僅かでも“勝とう”とする発想があるならば、大きな挫折と混乱を経験することになります。

わたしは母の苦しみを目の前にしたとき、少しでも早くそこから脱出させて混乱が終わりになることを願いました。彼女は現在“間違ってしまった”状態にあるので、正常な状態に戻すべきであると考えたわけです。目の前で苦悶している様を横目にしながら、このままでよいとは思えません。そのために考え得る手段を駆使して問題を解決に向けようとしました。
たとえば彼女のあるネガティブな信念体系が背後でブロックになっていて、そこから苦しみが生じている等の構造的な問題点が見えれば、それを何とか理解させられないかとも苦闘します。腫瘍があるならば手術で患部を切除しようと言う発想です。助けることはイコール治すことであり、結果を得られてこそ最終的な意味があると信じていたと言えます。

これは一見何の問題もない“正義”のようにも見えます。苦しみの連鎖から解放されるべく向かおうとするのだから結構な話ではないかと言えばその通りに思われます。 だから母の死に向かい合ったときには、失敗してしまったのではないかという慚愧の念にも囚われました。

確かに向かう方向自体に間違いはないのですが、ドラマのテーマはそこではありません。どこかに旅行をするときに目的地まで電車や飛行機に乗ろうとすること自体は間違っていなくても、旅の目的は何に乗ったかという既成事実を集めることではなく、旅の過程から経験される中身にあります。

もう一度自分自身を注意深く見ると、わたしには執着があったことが認められます。母の苦しみが終わり平安に至ることを心から望んでいたとしても、それは母の学ぶタイミングではなく、自分の予定、自分の期限に沿い、自分の見ている前で変わって欲しかったのです。急いで苦しみから逃れたかったのはわたしの方だったとも言えます。
矛盾しかつ執拗な闇のエネルギーに対する怒りや軽蔑感、その存在を叩き潰したいという復讐心もありました。さらには「できる」「してやる」といった自負や思い上がりもあったでしょう。
こちらは“光”と“正義”のつもりでも、よく見れば同じ闇と闇がじゃれ合っていただけのことでした。いかにも正当そうな理由の裏側にはエゴが隠れ潜んでいます。

医大(警察官、消防署など)の入学試験会場に向かう朝、道の途中で急病に倒れている人を発見します。この人に関わっていたら試験の時間には間に合わなくなるでしょう。しかしこれを見捨てて試験を受けて仮に合格したとしても根本的なところが外れていることになります。わたしは母の問題を解決せずに先には進めないと思いました。これは同時に、自分の都合に合わせて早く変わって欲しいという執着にもなったのです。

魂の旅行スケジュールはそれぞれであり、人によっては“今世”での経験を“来世”で飛躍するための足がかりに使おうとする長期プランがあるかもしれません。たとえそのようなことは分からないとしても、本当に畏敬の念を持つならば、目先の三次元的な事情を優先させるのではなく、「苦しみであってもこの経験を最も生かせる道が相手にもたらされますように」と祈ることが出来るはずです。祈りは自らにも返ってきます。
その道が自分のエゴが求める形とは異なり、理解できないような苦渋のドラマの終焉が見通せないとしてもありのままを認めること。それはつまり相手がこうして今ここ自分の前に存在していることの全て(縁と意味)を信頼することです。
母が今世で創造した経験は、宇宙の嫌がらせや罰でなったわけではなく、神に見捨てられたり何かが劣っていたからなったわけでもない。ただ今回の生でこそ表現できる掛け替えのない目的があって、それを全力で分かち合って行ったのだと思います。

大切なのは結果優先で相手を一方的に変えようとすることではなく、ただ一緒にあることでした。愛する人に苦しみがあるならば、それを共有するだけの覚悟を持てるのかです。
結果に光を求めるのではなく、過程に光があることに気づきます。これは諦めることではなく、たとえ全力を傾けたとしても結果には執着しないことを意味します。
最後まで苦しい思いが続くかもしれない。そうならば無駄だからと手を引くのか、それでも関わるのか、つまり思いが試されているとも言えます。
目には見えないこの「思い」こそが宇宙で唯一認められる共通言語であり、光の実相となります。

母を病院に連れて行ったときに、診察室で医者に診断してもらうこと、薬剤を投与すること、それによってどのような効果が現れるかが目的というよりも、そこに行くまでの道程、改札を抜けて電車に乗って、途中で食事をして会話してという日常のさりげない一瞬一瞬の経験と、そこで育まれていった思いが本当の目的であり光だったのだとわかります。
それがわかったとき、わたしは母の死を受け入れ、自らの苦しみを解放させることができました。

結果にこだわらないあり方は、後ろ向きの自己満足や逃げるための言い訳のようにも感じられるかもしれません。しかしこれはどういった形式が正しくてどう「すべき」なのかという判断を探しているのではなくて、心をどこに置くのかということです。
一緒にあればよいのならと、表面的な善し悪しの判断から物理的な側にいて手を握っているだけなら、これも同じように執着でしかないと言えます。取引を通じて自分にとって都合のいい結果を期待しています。

わたしはたまたま一つのドラマを越えた地点からなので、こうしてある程度客観的な言葉にできるとしても、進行形の現場ではそんな簡単な話ではないのは自分を見てもよくわかります。しかし“理想的な形”にとらわれる必要は全くありません。
人はつい、どのような「形」にすればよいだろうと、目に見えるものを判断基準にしようとしてしまいます。しかし重要なのものは目には見えない部分、外側には説明できない部分、自らの心や思いのあり方なのだと言えます。

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