A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

F

1-5.4 不可触心

インドにはカースト制と呼ばれる歴史的な身分制度が根強く存在します。生まれによって四種姓(僧侶・軍人、貴族・平民・賤民)に分類され、各階層ごとに職業・交際、結婚・慣習などについての厳格な規制が敷かれてきました。
さらにその枠外(アウトカースト)には最下層身分として「不可触民」と呼ばれる存在が設けられ、一方的に不浄なものとみなされ虐待や差別を受けていました。現在では「指定カースト」と名前を変更されても、未だ多くの問題を抱えています。
マザーテレサはそのような誰もが避けて通る人たちと関わろうとしたのです。

マザーは、物質的に貧しくあれと述べました。貧しい中でももっとも貧しい人と同じ場所から始めることの大切さを説き、自らも全てを捨ててスラムに入って行きます。
評論をするのではなく、実践の中で棄てられて苦しんでいる人や病気の人に直接触れていかれた勇気は、相手の尊厳や価値を本当に認めるだけの愛情と信仰心に裏付けられなければ出来ないことでしょう。無数の非難や誤解・中傷を受けながらも思いを全うしました。

こうして物質的には人々と貧しさを共有しましたが、心の分野においては逆に裕福だったと思われます。言い換えるならば心のお金持ちです。これは良い意味にもとれますが、外側に見える闇と関わろうとするときにはネックになる可能性もあります。だからといって心の貧困はお金や服を捨てるように得られるものではありません。
マザーはそもそもシスターになるつもりはなかったと言われるほど、豊かで幸せな家庭で生まれ育った経緯があるため、率直に言って心が「ねじれ」ずに済んでしまったと言えます。それが武器であり同時に限界点をももたらしてしまいます。
自分が悲鳴を上げることに精一杯ならば、他人のことなどに構っている余裕はないか、「他人のため」を名目に自らのエゴに関連する別の意図を目的とするかになってしまいますので、素直な心を保ち続けられるような環境面でのフォローは魂のシナリオ上必要なことでしたが、副作用として自らの闇のエネルギーに関しては後回しにされてしまったと思われます。

経済的な貧しさだけではなく、心の貧しさ(闇)も共有しなければ、どうしても理解には至れない部分というものが存在します。前に述べたような自分の首を自分で絞めて苦しみながら助けを求めるような矛盾や理解を超えた反応には、憐れみや許すことは出来ても具体的には戸惑うことしかできません。
それでも闇は当時の時代背景では悪魔と同義語とされてしまう刷り込みは避けられなかったので、知るに十分な能力がありながらもそれを積極的に共有することは信念上難しかっただろうとも言えます。二極化した常識の中で、光への憧れと闇への嫌悪感というのは簡単にぬぐい去れるものではなかったでしょう。
マザーは自らの闇の存在を認め愛することまでは出来ても、それを永久にそのままでよいとしたわけではなく、いずれは申し訳ない自分を改善しなければならない(闇は取り去らなければならない)というとらわれは棄てられなかったと言えます。

闇と向かい合うとき、「それを持つ罪深いわたし」という言い方と、神に祈って取り去ってもらう(懺悔と依存)形で処理されてしまうと、それ以上は進まなくなってしまいます。また自分がそうだとなると、周りの人も当然罪深いという目で見ることは、たとえそうしないように心がけても避けられないでしょう。
さらには端から見ている者も、マザーが罪深いのなら自分など輪をかけて罪深いと思い込んでしまうので、罪と萎縮の共同体が出来上がってしまいます。

今この時代におけるステップとして、むしろ心の貧しさを積極的に知って、それをありのままにゆるし、受け入れることを選択する道があります。
一般に知られている光とは、光の一部分を説明したものに過ぎないと言えます。闇を見ることによって光の全体が見つかります
イエスは山上の垂訓で、「心の貧しい人は幸いである。彼らは神を見るであろう」と述べられました。経済的に貧しい人はではなく、心の貧しい人はです。
イエスの意図はなかなか理解されませんでした。心が貧しいことと罪とは決してイコールではありません。

確かに裕福さに溺れてしまうと神を見失う可能性はあります。逆に経済的貧しさや飢えの苦しさから神を希求する方向に進むことはありますが、緊急事態の神というのが、お願いし依存する神になったり罪悪感を抱えながらひれ伏す神になったり、“どこか”の裁く神になってしまうならば問題が生じるでしょう。これでは内なる神を見ることにはつながりません。

現代の特に西側諸国や日本などには、やはり貧困や差別があるとしても、一切れのパンのために死ぬ人はあまりない生活を営んでいると言えます。
しかし、どんなに物質的に豊かな社会であってもやはり差別され見捨てられているもの、苦しみの根元となっているものがあります。
それが「不可触心(内面の闇)」です。

マザーテレサは自らの持っているものを全て捨てて、スラムの貧しい人の中に入っていかれましたが、同じように見捨てられているこの貧しい心(不可触心)は、どこかに行かなくても今ここ自分の中に存在しています。
マザーが神への愛、神への献身を最も重要だと説いたことはその通りであり、だからこそこの闇の部分(見捨てられている神)に目を向けていきたいと思います。

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