A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

F2

1-6 からし種

これを書き始めながら矛盾するようですが、言葉にはほとんど力は無いといえます。どんなに表現や修飾語を工夫し差し替えても同じ事です。
理論理屈を積み重ねて、たとえ相手に何かを納得させることが出来たとしても、本当の乾きを潤す力にはなりません。知識による「なるほどそうか」で問題が解決するならば、ある意味それほど深刻ではないとも言えます。
正しさを知らずに苦しんでいる人はいません。正しさを知っているにも関わらず、そうならない(発作的な)自分に苦しんでいます。

自分のこれまでの辛い人生経験を振り返ったとき、神という単語に触れただけで、怒りと恨みに身が震え頭に血が上る人もいるでしょう。
愛される経験をしなかったり虐待される経験を積んでいれば「愛なんて信じるものか!」と思う人もいます。ときには世界に復讐してやれという気持ちになっても無理はありません。特別なことではなく、誰であれ苦しみを積み重ねればそうなっても不思議ではないといえます。
さらにそこから培われた否定的な信念を元に生活を続けていれば、当然周囲にそれに伴ったトラブルを創造しますから苦しみは日常のことになっているでしょう。「やっぱりそうだ」という否定的確信を深める悪循環が増幅され、出口の見えない不快感の中で心は渇ききっています。
心の絡まりも二重三重程度ならともかく、もっと深く複雑に屈折することも珍しくはありません。そこにはどんな正論も役には立たず、むしろ逆に作用するような場面にも多く直面します。

笑顔を嘲笑と受け取って怒りだす人がいる場合、今の相手にはそのように見えてしまうのが現実であり、そうなるだけの深い痛みを説明しています。
またそのドラマを構成する登場人物に自分が含まれているならば、認めたくなくとも相手だけではなく自分の内面の闇がそこに見つけやすいように現れているということになります。全てがシンクロしていて「他人事」というのはこの世界には存在しないようになっています。
もう一つは逃げ道はないということです。必要にして現れるものはどうやっても現れます。ある人が嫌だからと地球の裏側まで逃げても、さすがにその人本人からは離れられるかもしれませんが、国籍人種環境を問わずに同じようなドラマを再現する別の人が遅かれ早かれ現れるでしょう。宇宙の嫌がらせで追いかけてくるのではなく、それらは自分が創造する自分自身の鏡なのだから、肉体の物理的な移動は意味を持たないわけです。解決策は、それらが現れる構造そのもの(つまり内面の闇)に直面していくしかありません。

人は闇のエネルギーを抱えながら、万一存在するかもしれない神の罰に怯え、孤独と罪悪感に震えています。強がりとは裏腹に助けを求め安らぎに飢えています。とりあえずは思考停止で乗り切ろうとしますが、闇が現象化するドラマを無視しきれずに時間の問題で直面せざるを得なくなっていきます。

「死を待つ人の家」のような最後の段階、つまりもはや強がる元気もないほど疲れ切って死を迎える直前にまで至ってから何かを受け入れるのではなく、そうなる前の段階にも必ず見つけられる「光」があると信じます。

過去に起こったことについて、それ自体を直接変更することは、他人のことはもちろん自分のことについても不可能です。
ただしそれを別の視点・角度から再検証・再評価することは可能だといえます。
こうだったに違いないと思い込んでいたドラマが別のものに書き換えられる、つまり闇が光に変わることがあるのです。

そのためには、「この世界とは一体何なのか。何が起こっているのか。神なるものはあるのか。創造には最終的な目的があるのか」という根本的な問題から探求していくことが、急がば回れで有効な道程になるでしょう。

言葉に「ほとんど」力はなくても、全くゼロではないならば、何がどのようになるのかは人間智で理解できる範囲ではないので、母から託された思いとともに、ただ自分の出来る範囲でこれを書き続けていきたいと思います。

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