A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

B

1-2. 闇

1-2.1 バランス

母となった魂は今世の縁を通じて、文字通り命がけで関わってくれました。
慈しみ深い存在であると同時に、自らの生の課題に挑むことから創造された長い苦しみと葛藤、そこから生じるエネルギーを表現しながら、神であることの“光と闇の両面”をありのままに分かち合うことを選択しました。
鬼女のお面でも有名な「般若」という言葉は、仏教で「悟りを得る智慧」という意味を持ちます。

三次元世界は宇宙のシナリオによって、ある視点から見ると光と闇が常に混在するように初期設定されています。
闇と呼ばれるエネルギーは、神のエラーや宇宙の廃棄物ではありません。しかしこの世界で現象化される場合には通常、苦痛に関連したドラマに翻訳されるところから始まりますので、迷惑で厄介な存在にしか感じられないでしょう。 「無ければ無いほどよいのに」と疎まれる対象としての“目的”を達しながら、そのままで神聖な役割を担っていると言えます。
宗教教義によっては、“悪魔”のように擬人化され、これを打ち負かしたり消し去ることが、神から人間が与えられた目的や義務であると説明される場合もあります。
しかし二極の特性を持った三次元世界では、一極を消し去ることは根本的に不可能です。右が右であるためには左が必要であり、上が上であるためには下が必要です。物に光を当てれば影が出来ます。光を強く当てれば影は一層濃くなります。光が光であるためには闇の存在が欠かせないわけです。

しかし人間を体験している以上、やはり闇のエネルギーが実際問題、具体的苦しみや不快となって身に降りかかってくることに変わりはありません。呼びもしないのに定期的に現れては非常に鬱陶しく付きまとい、心身の平安をかき乱すように感じられます。

誰もがそれとなくは気がついているように、この世界では光と闇が振り子のように両極を往復しながら交互に立ち現れてきます。これが基本仕様だといえます。どちらか一方だけで止まることはありません。
闇から光へのコースだけならば歓迎ですが、いずれまた逆のコースを辿ることになります。いわゆる「禍福はあざなえる縄のごとし」で螺旋状に繰り返されるわけです。良い極のときにはそんなことは認めたくないし、そうでないときはその通りだと思いたくなります。
人生時間内における振り子の回数やスパンは、魂が自らに設定した課題や目的ごとに異なり、この往復からもたらされる“段差”による刺激を学ぶ上での重要な道具にしていると言えます。

美味しい料理を食べたいと望んだときに、もしもこの世に美味しい料理しか存在しない場合、比較する対象がないためにそれが美味しいのかどうか理解できないので、結果として美味しい料理が食べられないことになるでしょう。
「その割には自分は“美味しくない料理”ばかり食べているのだけど」と思うならば、なぜそれが美味しくないとわかるのかと問えます。

世界のどこであれ誰であれ、光と闇は等量のバランスを持って現れています。差別がないというよりも、そうしないとこの世界自体が維持できなくなってしまうシステムだと言えます。人間だけが例外ということはありません。
苦しみが続いていると、「自分のこの闇だらけの環境で、どこに同じだけの光が存在するというのか」と思いたくなることがありますが、この幻想を牽引しているのはエゴの働きによるものです。

怖れを体現しているエゴは“足りない”を基本としていますので、有るものは無視し、無いものだけを求めようとします。手に入るようならば有るものになってしまうので、正確には“有り得ないもの”だけを求めています。実際には存在しない“足りる足りないの基準”を持ち出して、どこかにもっと違う何かがあるはずだという、嘘と矛盾に満ちた活動を続けます。
今日の食事が出来れば「ふん、そんなもの」、自分が健康であることも、親が健在であることも「だからどうした」と無視するでしょう。エゴは光を無視することに最適化された構造(役割)を持っていると言えます。
「存在すること」とその「存在を認めること」とは別の話になりますので、有ってもそれを認めなければ事実上無いのと同じことですから、苦しみのみを拡張させてしまうのが筋書きです。このトリックを見破らずに桃源郷だけを求めても落胆を受け取る結果になるでしょう。

それではこれが、たとえば親に虐待されたり、時には幼い命を失ってしまう子供たちや貧しい国で餓死寸前の人々、戦争やホロコースト下でも通用するのかと問えます。圧倒的な悲惨のみがクローズアップされ、一片の救いも見いだせないように見えるところでも光と闇とは等量だと言えるのかです。
そこにも神の愛があるはずだとか、そんなのはキレイ事だとか、ヒステリックな両極に逃げることなく冷静に考察することができます。
確かに60億個々の事例すべてを証明することは不可能です。ただ言えることは、そこには明らかに悲惨しかないと認定したくなるような対象を、自分は本当に正確に説明できるのかという点があります。

以前わたしが入院したとき、そのことに対する周りの反応は一律ではなく、彼らがわたしに見ているものとわたし自身の感覚とには相当の温度差がありました。
病気イコール天罰か悪いもののように感じて本人以上に狼狽えている人や、同情して泣き出す人あり、どこから聞きつけたか宗教の人もやってきたり、あるいはよい休息のタイミングだと肯定的に受け止める人など十人十色です。各人に見えているドラマはあるのでしょうが、それらは彼らの現実であって、わたしの現実とはまた別のものだったと言えます。
母を亡くしたときには、もちろん悲しい思いをしましたが、外側から見ればやはり死という情報だけでは、悲惨、不運、損害、失敗、可哀想という型通りのネガティブな視点でしか見られないとしても仕方がないものがあります。そこまでの長い経緯と、死を通して与えられた“光”や愛などについては誰かに簡単に説明のしようのない部分でもあります。
たとえば近年同じように親兄弟を亡くされた人とそうでない人とでは見えるものも反応も異なってきます。一つの情報を引き金にして、それぞれにとっての馴染みやすい現実が投影されます。簡単に言えば自分が見たいものをそこに見ています。
確かに今にも空からミサイルが降ってくるような状況ではないにせよ、一部の断片情報だけで相手に何が起こっているのかを正確に説明することは無理なことです。
一つのドラマから何が起こり何が癒されているのかは、当事者にしか(あるいは進行形の時点では当事者にさえ)分からないものがあります。

→次へ