A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

D

1-5. マザーテレサの光と闇

1-5.1 光

マザーテレサ(1910〜1997) は、インドのカルカッタで貧しい人・孤児・病人の救済に生涯を捧げました。
その強い信念と行動力、深い愛情は驚くべきものがあります。世間から見捨てられ、路上で行き倒れになっている人の最後を看取った施設「死を待つ人々の家」などは有名です。彼女のもたらした光には多くの人が引きつけられていきました。

しかしマザーの行為はナンセンスだと評されることがあります。彼女は誰とも分け隔てなく相対しましたが、その行いを表面的にしか見なければ、死ぬと分かっている人に貴重な薬を投入しても無駄だし、同じ使うならまだ治る見込みのある人を優先するべきだし、それ以前に末端の個々の問題に向き合うよりも政治や社会システム自体を変えなければ、浜辺の砂粒を数えるような無駄な行為でしかないと見なします。

自己満足の偽善行為と優越感を得るための欺瞞、百歩譲ってもあとで神に善行をほめてもらい天国行きのチケットを手にするために苦しんでいる人たちを利用している行為だと、(そういう信念体系の人には)判断されるのかもしれません。

目に見える形のみを基準とするならば、仮にどこかの億万長者がある日気が向いて貧しい人全員に十分なお金と薬と住む家を寄付し貧困を一掃したらそれで万事解決し文句はないのではないかと考えます。
死にゆく人に対して中途半端な医療と、愛だの献身だのを標榜したなぐさめの言葉しかかけられない行為よりも、後者の方が有意義で合理的だという価値判断です。
もちろん寄付も神聖な行為だと言えます。またそれで本当の“貧困”が無くなるなら素晴らしいことでしょう。表面的な手段に良い悪いの順位付けをすることは意味のないことです。重要なのは「そこにある思い」がどうであるかです。

マザーテレサは道端で死にゆく人の苦しみの本質が経済的な貧しさよりも、自分が誰からも愛されていない、顧みられていない、見捨てられ必要とされていないという思い(孤独)だと知っていました。だから貧困はお金がないという意味だけではないわけです。たとえ裕福であっても同じ苦しみは存在するでしょう。
日本のような国で仮に物質に満たされていても孤独は蔓延しています。

10人救うよりも100人救った方が10倍意義があると考えるのではなく、どこかに特別な何かを探すのではなく、今ここにある(自分に縁を持って現れた)ものと向かい合って、たとえ一期一会であっても自分の持っている愛を使うことに光を見いだす道があります。
全力で愛を使うと書けば格好がよいのですが、その必要はなく、肩の力を抜いて普通に使えばよいと言えます。「全力」という言葉に囚われて自戒と懺悔のループに陥ると本質から離れてエゴに仕えることになってしまいます。
今この瞬間にも世界のどこかでは自然に、数分単位で一人の人が生まれ、一人の人が亡くなっています。 慌てても生命の循環は止まりません。

マザーテレサはその中でただ黙々と「今」出来ることをしました。それも「してあげる」というより、愛を使わせてくれてありがとう、多くを学ばせてくれてありがとうと、相手(神)に祈りながら感謝する気持ちでいたからこそ長く続けられたのでしょう。

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