A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

E

1-5.3 聖人

マザーテレサは積極的に聖人になろうとしました。神への祈りを通じて自らの思いと行いを徹底的に律し、純潔で無垢になるべく最大限の努力を傾けられたのだと思います。そして光の体現者として世界中を渡り歩き、誰もがなし得ないほどの活躍をされました。

もちろん聖人になって威張りたかったわけではなく一片の汚れのない状態になればこそ人に神の話が出来る(資格を持てる)のだと信じていました。
人は彼女を見て、その存在エネルギーに触れただけで自らの内側にある光を見い出したと言われています。光を共振させるモデルとしての意図は成功しました。
一番のポイントは、聖人の価値判断ではなくて、聖人になるアプローチが誰かの役に立つはずだという「思い」で行動されたということです。これは尊いものでした。

聖人になることは、神ではないものすべてを脱ぎ捨てようとすることだとマザーは説きました。彼女の過ごした時代背景やカトリックの教え、そこから生じる「善」を基準とする信仰心がベースとなったために、自らの信念に一定の傾向が生じたとしても当然だったと言えます。その中で最善を尽くされたことに疑う余地はありません。たとえ修道女という形において、いくつかの「しなければならない」の呪縛下にあったとしても、キリストの愛を実践されたのだと思います。繰り返しですが、ポイントは形ではなく「思い」です。

過去の否定ではなくて、今この時代タイミングにおいての新たな角度から宇宙を見るとき、“神ではないもの”はどこにも存在しないことを認める自由があります。
神以外のものをどこかに存在させてしまう程度の能力ならば、それは神ではないだろうという単純な理屈が通ります。神は「えー、そんなものは見たことも聞いたこともない。ビックリしたなあ。わたしの責任じゃないよ、だって知らないもん」とは言いません。
ある種の教義的刷り込みが深いと受け入れ難い部分ですが、闇と呼ばれているエネルギー、誰からも嫌われお荷物扱いされているエネルギー、これもやはり神に他なりません。
「あれは敵だ、異教徒だ、悪だ」と裁きたいものでも、それらが神に無断で勝手に存在することは不可能だということです。
神とは人間が定義する“善”で説明されるものではなく、全てを許し包括するエネルギーです。「ある」ものは何であれ神であります。

分離を前提に良い悪いを価値判断し、何かになろうとするのは、どんなに正当そうな理由を用意したとしてもエゴの働きによるものです。
「聖なる」何かになるという目標は、どこからも文句が出そうもない(出させない問答無用の)優良物件に思われるだけに、むしろトリックにはまるところだといえます。
聖とは何なのかの価値判断は、神が決めるものではなく人間が(その時の都合で)決めるものですから、聖なる差別も聖なる戦争(人殺し)も生まれます。もちろん相手(敵)も相手なりに聖なる戦いです。どちらの聖が本当の聖かの決着はつきません。
これとマザーテレサの聖とを一緒にするべきではないだろうと思っても、テロをするような人も中途半端な思いで出来るものではなく、善し悪しは別にしてその立場ごとの真摯さや深い思いがあるのは同じことです。

これから聖になろうとするのなら、今現在は少なくとも聖では無いという論理が成り立ちます。つまり罪深く不十分な自分が出発点であり、聖は後から努力などをして手に入れるものになっているわけです。まるで人間としてこの世にやってくるときは、まずは駄目な状態(不良品)なのだというのが暗黙の了解のようです。
このような宗教的信念が喧伝されてきた事情がこれまではありました。人間は神に対して常に申し訳ない存在であるという話は神が述べたものではなく、為政者の都合によって創作されたものに過ぎません。民衆が萎縮し従順であることが意図された一種の計略です。
自称「神の取次役員」にとっては、個々が勝手に神とつながられては困るので、罪悪感を刷り込ませて面会は許可制だというシステムが必要だったのです。
神とは妬み裁く者であり、人間は苦しみに耐え続けていた方が喜ばれるという嘘も同様の理由で流されました。身の程を知らせることによって喜ぶのは為政者であり、神ではありません。
だからと言って今から特定の為政者を断罪することに時間を費やしても意味がないことです。あらゆるシナリオもやはり神の中の神の出来事です。

もう一つは、エゴが理想とするような、いわゆる「聖なる」何かになろうという執着にゴールは存在ないということがあげられます。エゴは「もう少しだ、あと一歩だ」などと唆しますが、どこかで「これでよし、聖なる免許皆伝に至りました。お疲れさま」などと言う気は毛頭ないわけです。どんなに頑張って、釈迦の修行のように骨と皮にまでなっても「まだまだ」と言い続けます。
このゲームが完了し、“もっともっと高徳になっていく快楽”が終了してしまうことは、エゴにとっての死活問題ですから決して終わらないように仕組まれています。
それでもあえて最終地点を探すならば、「そうか人間自分の存在自体が(こうやって呼吸していることも)不浄なのだ」という結論に行き着いてしまうので、死によって聖なる達成を図るかもしれません。釈迦はこのトリックに気づき苦行を解きました。

マザーはお金についてはこのように述べています。「お金に触れるようになると神に触れなくなる。お金があると贅沢な食べ物とか余計な衣服、いろいろなものが欲しいという欲望が生まれます。要るものはますます増えてくる。結局は際限もなく不満を生ずることになるでしょう。」
これは一面的にはそのようにも見えます。しかしこれも価値判断のトリックにはまってしまえば矛盾と直面します。それはどこかに基準点を設けて、それより上は贅沢で、それより下は貧しいなどと定義することは不可能だという事実です。 結局は自分の思いこみだけだと言えます。
人それぞれに基準点があり、誰かの思いこみと比べて自分の思いこみの方が正しいと言える根拠はどこにもありません。高級ブランドの洋服を贅沢だと言うのと同様に、仮にマザーテレサが唯一着ていたサリーを指して贅沢だと価値判断する人がいても、それを間違いだとは証明できないわけです。
どこを贅沢と清貧の分かれ目にするのか、スーパーの特売服はどちらに分類するのかは決められません。つまり存在しない価値を目指せば、いずれ破綻することは目に見えています。
またこの「お金」のジレンマは、「聖なる何かになろうとすること」という言葉にも置き換えることができるでしょう。要るものはますます増えてきて、もっと正しく、もっと純潔に、もっと高徳にと際限のない不満に襲われるのです。

人を神から遠ざけるものはお金ではありません。いかなる外的条件でも無いと言えます。聖であるとか無いとか、裕福だとか貧しいとか、どんな国でどんな生活をしているかとかではなく、神を見失わせるものは、内面に抱えている罪悪感であると言えます。
罪悪感のサングラスをかけてしまうと神は見えなくなります。 ですから「罪深いわたし」を前提にしたあり方では、エゴに脚色された「神」のみが現れてくることになります。

闇を闇として放置している間は罪悪感が消えることはないでしょう。 無視するアプローチも変えようとするアプローチも失敗します。
人は貧しさに震えているのではなく、寒さに震えているのでもなく、罪悪感に震えています。

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