A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

C

1-3. 闇と信念

世界の中に闇を積極的に見ようとする衝動はなぜ現れるのかというと、つまり見た方が自分にとって有益だと錯覚するからだと言えます。
暗く不快なものを見て利益になるとは俄に信じられませんが、それを補っても見合うだけの特典があると思い込んでいます。それは自らが内面に抱えている闇の苦痛を、外側の闇を見ることによって誤魔化せるのではないかという望みです。

内面の闇については、出来ることなら顕在意識には上らせたくはなく、そんなものは無いことにしたいのが本音です。普段は頑張って目を逸らしていますが、生活の中でちょっとした隙にその存在に気づいてしまう瞬間があります。他人の目からは直接見えないものとはいえ、それを抱えている事実を受け入れることに耐えきれず、非常な怖れ(罪悪感と孤独感)に襲われます。

しばらくは自らを裁きますが、それでも闇の問題が早急に改善されることが見込めない場合、応急処置として考えられるのは二点です。
一つは同じ仲間を集めること。仲間と言っても信頼し合う友人というわけではありません。群れの中で自分を目立たなくさせる隠れ蓑にするための打算を元にしたつながりです。
それはまた「自分だけがそうなのではなくて、みんなだって同じだ」と神に釈明する際の材料にもなります。
もう一つは、群れに埋没するためには自分は少しでも地味な方がよく、周りはより派手な服装で固めた方が有利に感じられます。
やはり神の審判においてピックアップされ難くなり、もし見つかっても「あれに比べれば自分の闇はまだマシな方だ」と主張できるような安堵感を得るために、その保証として外側の闇の数を数えるわけです。
外側の闇が拡散していくように見えるのは、このシステムが無意識に働いているからだと言えます。

それでもエゴは、闇に注目するのはそれに対して正義の鉄槌を下すためであるかのように偽装し、実際三次元的にそういう活動をする場合もあります。しかし正義の鉄槌によって本当に闇が減ってしまったら自分の闇が目立ってしまうので、“「人を非難するな!」と相手を非難するようなやり方”で、巧妙に闇を拡大させていくでしょう。世界で起こっている争いの基本パターンはこれであると言えます。

闇のエネルギーについては、考える以前に固定的な評価が出来上がっています。「悪いものに違いない」「汚らわしいものだ」という前提です。なるほど陰鬱で後ろめたく、役に立たない不快なもので、ドラマ化すれば他人だけではなく自分をも苦しめるようです。もし神が存在するならば決して自分が持っていることは知られたくないエネルギーです。
だからこそ力業で、自分には闇など存在しないことにして封じ込めてきたわけですが、本当にこのスタンスで間違いないのか、もう一度正面から再検証することが出来ます。

自分の生の中で癖のように何度も繰り返されるドラマパターンがあると思います。もちろん肯定的なものはよいのですが、「またやってしまった」「なぜ自分だけいつもこんな目に遭うのだろう」のような否定的なパターンは厄介です。冷静に見るならば、誰にでも起こっているというよりも、明らかに自分だけに特化されて起こっているものです。
闇の再検証によって、これが著しく減少する可能性があります。存在しないはずの闇が勝手に暴走してからビックリし、後始末に奔走するのは終わりにしたいところです。

これまでは否定的な出来事に出会った場合、闇は無いことになっていますから、運が悪かった(「宇宙」が人間に向けておもしろ半分に投げたダーツの矢が、たまたま自分に当たってしまった)と思うか、宗教的な刷り込みがあれば(原初から)罪深い自分が神に罰せられたのだと恐れおののくか、どちらにしても不可避の犠牲者という立場で諦めてしまう場合があります。
もしそれが実は自分の“リクエスト”によるものだったとなるならば、そのリクエストを取り消せばよいと分かります。

まず最初に広げたいものは、「闇はあってよいのだ」という発想です。この可能性は門前払いで排除されてきました。これまでは存在自体が強引に無視されるか、俎上に載ったところで鬼退治の鬼扱いかのどちらかです。
光があって闇があって、それで人間なのだと認めること。「そんな当たり前のことを今さら」と思っても、実際には確信があったわけではなく後回しの有耶無耶にされてきたのが実情です。
開き直りや皮肉ではなく、本当に闇があってよいのだと受け入れることが出来ます。それにこれまで述べた通り、無くしたいと思っても片極だけが無くなることはありません。

宇宙には「一つ」だけが存在しています。本来は光と闇のような別のものは存在していません。あくまでも三次元世界上で魂が学ぶための便宜上、そのような対立設定に見せかけているだけだと言えます。だから、光がいつまでも光であることはなく、闇がいつまでも闇であることもありません。同じ一つのものが交代で役割を演じています。固定された闇という実体はないのです。

これを踏まえて、自らが現在擁立してきたネガティブな信念体系を精査することができます。
今現在構築されている信念は、過去の経験を(その時点では最善でしたが)ある狭い一つの角度から解釈し積み重ねたことによって培われただけのものだといえます。
これが気に入らなかったり不要になった場合には、その組成過程を綿密に分析して、原因と結果からなるプログラムを望む形に書き換えれば別のものに変わります。そのための山場は、とにかく変化を怖れ忌み嫌う「エゴ」の反対をいかに押し切るかになるでしょう。
過去の思い出したくない記憶に直接触れなければならないかもしれませんので、かなりの勇気が必要になるとも言えます。しかしそれだけの価値は見いだせます。
これまで避けて蓋をしてきた過去の事象が、今現在の目から改めて見ると、その当時に固定されてしまった価値判断とは全く違ったものとして浮かび上がってくることがあります。

つまり、もう一度「今の自分の信念は本当にその通りか?」と問いかけ、信念を分解し再構築していくと、闇であったはずのものが光に変わったり、あるいは闇がこれまで通り存在しながらも、それがこの世界で苦痛のドラマに翻訳されることのない方向が見いだせます。

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