1998

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◆幸せになる

ラマナ・マハリシは、「幸福と自己は別のものではない」「対象物から幸福を得るものと思って、心が外に出てゆくとき悲惨を味わう」と言っています。幸福はどこかから得るものではないというわけです。
  確かに外的条件が必要な幸せは、例によって浮き沈みのサイクルと「誰かが足りなくなる怖れの幻想」の中での奪い合いのドラマの後に、必ず失望で終わるというお約束の結果がもたらされます。

エゴにそそのかされると、存在しない鍵探しの放浪旅になります。永遠に「どこか」を探し続けておわり。どこかどこかどこか・・・。しかし(百が千になったら万を求める)エゴの辞書に「満足」という文字はないので、終着駅が見つかることはありません。燃料が切れるまで走り続けるだけです。

やってくるものはやがて去ってしまうものであります。幸福と「わたし」が同じものならば、それはやってくることはなく去ることもないでしょう。

幸福を外側から「得よう」とする実験をこれ以上続ける気は起こらなくなりました。この実験データはそれこそ星の数ほどあって、いい加減にマンネリで疲れたとも言えます。

すでに存在しているという幸福があるとするならば、それは果たして本当に素晴らしいものなのだろうか、それとも退屈なものなのだろうか。自己と幸福が同じであるとはどういうことなのか。
深く静かに自分の中心に入って、それを見つける人になるか、エゴの終わりのない欲求や傾いた信念に翻弄されて、頑固に見つけようとしない人(どこかを探す人)を続けるか、そういう選択をするタイミングなのだと感じます。

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