1998

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◆エゴのもたらすもの

エゴは変化を怖れるので、なかなかこの構図を認めたがらず、せっかくの安眠を妨げられないようにと防御対策を練るかもしれません。

たとえばコンプレックスや罪悪感や無力感(という幻想)は、その裏返しとして自分を一足飛びに高台に登らせたいという心理に結びつき、即席の「正義の味方」や「裁判官」や「特別な神の使徒」を誕生させることもあります。
見下ろしたいという願望は、分離の幻想の中で自分が見下ろされているという思いこみによって生み出されます。しかし実際には誰かが先に見下しているということはなく、自分で自分を見下ろしているのであって、世界に創造されるドラマはその信念を忠実に反映しているに過ぎません。

「正義」を行使するためには、その反対の「悪」が必要であり「敵」や「悲劇」が必要なので、自分にとってだけの「善」や「神」などを強力な印籠として掲げて、意図的に二極化させた「世界」の中にそれらを見つけていきます。
極端な場合には、微笑みは嘲笑であり、親切は偽善であり、夕焼けは血の色であるように、信念と照らし合わせて無理に解釈してでも置き換えます。否定的な世界を証明し存続させるために、否定的な世界と戦う必要性を探し出すという方法です。

さらに印籠にまつわる組織や団体などの外的パワーにぶら下がってしまうことも、自他を納得させ、言い訳を正当化するのには都合のよいものです。これらは利用できるだけ利用して、いざとなったらその中の歯車や殉教者などの「犠牲者」に化けて、責任逃れするときの保険にもなります。
 こうした欺瞞は度が過ぎると、自分では真面目に「聖なる革命」のつもりでありながら、「世界」や「他人」に対して高圧的な態度で不調和を強制する破壊テロリズムや宗教戦争のような現実の創造に発展する可能性もあるでしょう。
  世界の闇を嘆く前に、自分が黒いサングラスをかけていることに気づくことが必要であります。

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