1998

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◆「世界」は生きているか

 

  •  わたしが見たAさんはどこから現れたのだろう。
  •  なぜBさんやCさんではなくて、Aさんだったのか。
A
わたしが見るものは、知らない向こう側から勝手にやってくるものであり、「偶然」あるいは無理矢理にわたしの目の中に飛び込んでくる。そして「世界」はすでに決められた認識を迫る。
B
わたしは世界のある部分は自分で選択して見ているが、残りは世界によって否応なく見せられている。
C
わたしは自らの選択によってのみ、世界を見て認識している。

「世界さん」なるものが先にあって、自分はその中に出現したのであるという錯覚。この錯覚が苦しみの基本を創り出しています。わたしは、彼(世界)のパーティーに招かれたゲストではありませんでした。

わたしが今見ている「世界さん」と初めて出会ったのは、理性の答えとしては、わたしの肉体が生まれたときになります。世界はその時に初めて創造され、それ以前に世界は存在していません。
「それ以前にも誰かにとっては世界は存在していただろう」というのは「想像」であります。誰が想像しているのかというと、わたしが起きている「たった今」の中において、唯一わたしによってなされています。起きていなければ想像しません。「誰かも想像しているだろう」も、わたしの想像です。

またわたしが彼と別れるのは、わたしの肉体が死ぬときだろうと想像できます。実際には数秒先でさえ何が起きるのかわからないのですが、とりあえずそう想像します。それから普段でも深く眠っているときや気絶している時にも別れています。
  彼の方から会いに来てくれたことは一度もなく、常にこちらから会いに行きます。そしてこちらから去ります。

歴史の教科書にしても、わたしが気絶していない状態でこそ、その存在を確認できます。その本を読める可能性があるのは「今」だけです。過去に読んだというのは「記憶」であり、未来に読めるだろうというのは「想像」です。

それら記憶も想像も唯一「今」の中においてのみ、わたしによってなされています。記憶と想像は「世界」ではなく、脳の中にだけ存在している幽霊であります。

わたしとは誰で、本当は何処にいるのかについての無知と混乱が、「彼」という幻想を生み出しました。「たった今」のみに世界は存在しています。ビックバンがあるのなら、そこから一秒も経過していません。

回っているカメラは「わたし」一台だけであり、アングルは常に固定されています。他のカメラは覗いたことがないし、覗くこともできません。
  混乱とはエゴに騙されて本当に存在し操作できるカメラを見失い、存在しないカメラを覗こうとすることです。「わたし」の存在座標が四方八方にフラフラと飛び回り、永遠にたった一つであり不動である“自分の場所”がわからなくなっています。

  1. 「世界」は人間に何かを見せる能力を持っていない。
  2. 「世界」に意志はない。
  3. 「世界」は自立していない。

「世界さん」なる生き物は存在せず、
存在しているのは 「今、この世界を見る者」だけである。
「わたし」という「見る者」を無視して、
世界だけが勝手に存在することは出来ません。

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