1998

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◆緊急事態

もし本気で「世界」に肯定的に奉仕し貢献したいと願うのならば、最短最善の道はまずは自分自身が幸せになることだと思われます。
  「世界」の中でどこよりも一番近くにある自分自身の平和や調和がうまく見いだせなくて、どこか遠くの平和や調和を達成するのが不可能なのは単純明快な理屈です。自分が知っている以上の幸福を「外側」に提供しようとしても無駄であります。不渡手形を乱発するだけに終わるでしょう。

エゴは「この緊急事態にそんな悠長なことを!」という嘘を持ち出すことがありますが、騒ぐだけで実行に移すつもりがないのはこれまで書いた通りです。本当にやる人は言うより先に飛行機に乗っています。大きく漠然とした看板の威を借りて、ごまかしの道具にしているに過ぎません。
  世界に星の数ほどあるかのように指摘する緊急事態なるものに、どこまで責任を持ち本気で関わる覚悟があるのかということになります。中途半端な冷やかしでしかないならば、他にやることがあるでしょう。
  もし身近な日常の人間関係でいつもトラブルを起こしたり、平和や調和を達成するどころか壊してしまったりするのならば、そのことを脇に置いて地球の裏側の心配などに夢中になるのは筋が違うわけです。

外側に緊急事態は存在していません。自分自身が眠っていることが緊急事態であり、自分自身が不幸ならば、それこそが緊急事態であります。これを無視することが最大の現実逃避であると言えます。

THE SEAT OF SOUL (by Gary Zukav)という本の一節を引用すると、
「魂の立場に関わることになれば、魔女狩りやホロコーストのような残虐行為、子供の死、ガンによる長引く死の苦しみ、寝たきりの生活のように、一見どうしようもないようなことであっても、それに白黒をつけることは差し控えなければならない。そのような苦しみで何が癒されているのかとか、埋め合わされるエネルギー状況の詳細とかはわからないのである。」
  もちろん世界との関わりを避けて山奥に隠遁しようという話ではなく、自分の中心から沸き上がる気持ちに正直でありながらも、エゴの都合のよい白黒の判断に陥らない形での関わり方を見つけることが大切だと思います。

救済者を演じる者は、自らを投影した哀れな誰かを見つけてはその烙印を押し、勝手な退会を許さない不幸互助会に入会させます。
救済者としての役回りやプライドが満足する範囲では手を貸そうとしますが、相手が死なない程度に溺れていて自分が岸辺から藁を投げているようなバランスまでの応援です。
  助けた相手が本当に幸せになってしまった場合には祝福は出来ません。今度は足を引っ張ろうとするでしょう。「話が違う。わたしを置き去りにして勝手に幸せになるな」ということです。

「あなたの不幸の元凶(という幻想)と一緒に戦って上げます。」という行為は、いかに相手が不幸であるかを見つけさせ、そこから出られないような手伝いをしてしまうことがあります。「悪」を前提とした戦いや憎しみはその対象物の力を奪うことはならず、かえって力を与える結果をもたらします。

実際には「悪」なるものは存在していません。あるのは熟睡による幻想をもとにした無知と誤解と、そこから生まれる怖れだけであります。

自分を知らず、いったい何が起こっているのかさえわからないままに、ただ騒いで暴れて不本意なドラマを創造してしまい分離の苦しみの中にあること。これこそがまさに緊急事態であると言えます。

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