1998

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◆「世界」の姿

「世界」そのものは色も形も持たず、純粋な素材エネルギー(空)としてのみ存在しています。起きているときには色とりどりに見えても、本当の姿は無色透明です。
あらゆる想像を取り除いて、自分が自信を持って証言できる部分だけに注目したとき、色・形・音・固い・匂い・柔らかい・熱い・冷たい・・・、これらを見ているのは誰か、これらを感じているのは誰であるのかを問います。

「世界」は自らの力で形を創造することはありません。そもそも「自ら」というものを持っていないからです。
さらに「世界」は進化することも出来ません。何かが足りなければ進化する余地もありますが、世界には最初から全てが揃っているので進化のしようがないと言えます。

進化や退化という認識は、「見る者」の都合によって生み出されています。世界は無限であるので、これまで一度たりとも減ったことはなく、これから増えることもないでしょう。理性は岩や石しかない原始時代と、文明の利器で満たされた現代とが同じ「世界」であるというのを受け入れないかもしれません。しかし目を閉じるだけで「石」も「利器」も簡単に姿を消します。

新しいものは一つも存在せず、世界はずっと同じものでした。時間軸で言うならば、今ある物はすでに過去にあったものであり、未来にあるものです。 見つければ何でもあり、見つけなければ何もない。
  自分だと思いこみやすい、この百年足らずの寿命の肉体があろうがあるまいが、たとえばいわゆる「善」も「悪」もこれまでずっとあったし、「わたし(見る者)」にとって必要とされるならば、これからも未来永劫あり続けるとも言えます。
  神のサービスには時間制限も打ち止めもないので、それらはいくらでも用意されます。地球を自由に経験できるように、好きなものを見つける権利を神は保証するでしょう。

 

◆何を見ているのか

何もかもが存在する「世界」の中に、わたしは何を選択し見ているのだろう。選択した瞬間に「空」から現実が創造されます。食べ放題のバイキングで何を食べているのだろうか。
その選択の基準となっているものは自分の信念であることに気がつきます。そこにあるはずだと信じるもの。たとえ顕在意識では自覚してなくても、そこにあって欲しいと願っているものであるとも言えます。

前出のAさんは、わたしが願っていた人だったので認識し、BさんやCさんはそうではなかったので認識しませんでした。網膜に映ることと認識することとは別のものなので、もしBさんやCさんの方が、物理的位置関係ではAさんよりも間近にいたとしても、わたしは彼らを見ることは出来ないでしょう。
またはAさんとBさんとCさんが同一人物という場合もあり得ます。前にも書きましたが、人にはそれぞれあらゆる階層の波動があるので、楽器の同じ音の弦が共振するように、自分の信念に都合のいい波動を相手から引き出して、自分の信じるドラマに参加してもらうことも可能です。

1
たとえば「他人は敵である」という信念があれば、
2
そういう人(そのリクエストを満たしてくれる人)を世界全体の中から見つけ出して(そうではない人は無視して)、
3
見つけた人にとっての現実が創造されます。

これが順番であって、逆の方向はありません。

眠っていると、敵の方が先にあって自分はそれを「見せられている」犠牲者だと思いこむこともあります。この思いこみには出口はなく、(自分が呼び込んだ)敵と戦えば敵はますます現れて、悪循環の中でさらにその信念を深めることになってしまいます。

世界の中に、すでに無限に存在している可能性やパターンの中から、自分の信念を証明するためのものをそこに見つけています。信念に無いものは、そこにあっても見えません。

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