1998

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◆否定的な世界

わたしは世界の中に否定的なものを見つけ続けていたときがありました。そしてそれが現実であり真実なのだと思いこみました。「他の人」を含め、全てがそうである(同じようにそれを見つけている)と思いたかったのです。
  なぜわたしはそれらを必要としていたのかを振り返ってみると、一つには世界の中にそれを見つけ続けることによって、自分の言い訳や免罪符に使いたかったというのがあります。

否定的なものの存在は、たとえば自分がサエないことの言い訳に利用できます。うまくいかないことを正当化するためには、世界が否定的であってくれた方が好都合です。自分の問題を正面から見据えるより、世界の問題にすり替えて責任転嫁した方が楽であります。

また(偽りの)安心感も得られます。「横断歩道、みんなで渡れば恐くない」であり、こそ泥が大泥棒を見つけてホッとする感覚にも似ています。「あれに比べれば、自分のはまだマシだ。かわいいもんだ」という理屈です。

外側にある(という幻想の)否定的な何かのせいにして、犠牲者や弱者の役割に安住すれば、自己憐憫とともに自らの停滞を容認し、問題をごまかし続けることが出来るわけです。

世界の中に嫌いなものが見つかるときには、それは本当は「自分が嫌い」なのでした。しかしそのことは認めたくはないので、目を背けるために(自分が創造した)否定的なものに夢中で怒りをぶつけて酔っぱらおうとします。
たとえ千回酔っぱらったとしても何も解決しないことは分かっているのですが怖れと混乱の中で転がり続けます。

世界がうまく行っているのに自分だけがサエないのでは耐えられません。自分が不調和であるのに、世界が調和していたら孤独に満たされてしまうだろうと怖れます。

そこで、
(1)世界は否定的であって欲しい。
(2)それを証明するためのものを世界の中に何としてでも見つけたい。
という順番になります。

エゴは問題を複雑に見せかけようとしますが、起こっているのはそれだけのことでした。自分を守ろうとするエゴの気持ちも分からないではないですが、結果的にはこの終わりのないわがままのパターンをどこまで続けたところで、さらに悪化することはあっても癒されることはありません。問題を先送りするだけで、出口がない迷路にはまってしまうでしょう。
  このトリックを腹をくくって認めて、新たな第一歩を踏み出すかどうかが、苦しみの堂々巡りから抜け出す道だと気がつきます。

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