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神
神と人
- 人と接するときには、神と接するのと同じように接する。
- 全ての人は神の現れであり、神である。上下の差別はない。
- すべての人を愛することが無くて、本当の信仰の道は開けない。
もし差別し見下す人がいたら、あなたは神を見下している。
もし非難する人がいたら、あなたは神を非難している。
もし見捨てる人がいたら、あなたは神を見捨てている。
- 人類の調和は神の調和であり、万象万物の調和である。
- 神を前にして照れる必要も物怖じする必要もない。
素直なままに行動する。調和のために行動する。
- 神に対して祈り、感謝する。
神の中
- 誰一人裁く必要はない。
全ての人が神によって生かされている光の存在。
たった一回の呼吸も神に無断では行えない。
それをどうして裁くというのか。
- もちろんあなた自身も裁く必要はない。
- それでも裁く時がある。
無意識に裁いている時もある。
それは学ぶ必要性を指し示されているのである。
- 他人という鏡を通して、あなた自身の欠点を発見する。
- 人生には悩みは存在しない。
しかし人は悩みを通して魂の進歩を遂げる。
- 悩むことも苦しむこともありがたい。
思う存分悩み苦しむ。
そして悩みが存在しないことを悟るのである。
- あなたという存在を信頼する。神を信頼する。
全て「良かれ」しかない。
だから安心して悩み苦しむのである。
- 地には無限に愛のエネルギーが降り注いでいる。
人は全て愛に包まれている。
だから焦りも不安も必要ない。
あるものがあるままで感謝しかない。
- 苦しんでいる人を見よ、こんなにも愛のエネルギーが降り注がれている。
それを見たとき感動の涙が溢れる。
あとは感謝に具体的に報いるのである。
感謝するから報いるのである。
- みんなが学べるように祈りたい。
この世に非難すべき対象物は何もない。
愛しかないのである。
- あなたの中の暗闇を見る。
そしてあなたは人間らしくなり、全ての人を愛することが出来る。
- 暗闇から逃げるのではない、暗闇とコミュニケーションをとるのです。
- 問題解決の時は必ずやってきます。
だから安心して学んでいきましょう。
- あなたの目の前を通り過ぎるものは、全てあなたそのものであり、
それは決してあなたを傷つけることはない。
これまでもこれからの人生も人は完璧な安全性の中で生きている。
- 広大無辺であるあなたの存在を知る。
怖れるものは何もないことを知る。
- 人は全て神の中にいる。
神の音
- 隣の部屋から音がする。
それをうるさいと思ったら、心を騒がせる苦しみの種となる。
神の声だと思ったらどうだろう。
聖フランチェスコのように万象万物に神を見、神を聞く。
すると雑音だと思っていたものが神の音色になる。
安らぎの道具になる。
- 事実全ては神であり、神そのものである。
見つける人
- あらゆるものはここにある。
あらゆるものは今にある。
あらゆるものは瞬間にある。
- 神の声はどこかにあるのではなくて、ここにある。
- やることはどこかにあるのではなくて、ここにある。
- やりたいことはどこかにあるのではなくて、ここにある。
- 探す人は探すことが目的なので、永遠に探し続ける。
- 今この瞬間に見つける人になる。全てはここにある。
- 今に生きるということは、今を見つけることである。
- 今をどこかに探すのではなく、今をここに見つける。
- ここに全てがあって、足りないものは一つもない。
- 神は今ここにいる。
神を見つける
- 神は誰かが外から与えるものではない。
- 真理は誰かが外から与えるものではない。
- それぞれが自分の手で、自分自身の中に見つけるものである。
光透波
- 誰に何を言った。誰に何を言われた。
見える言葉、聞こえる言葉にとらわれない。
それは表層の一角に過ぎない。
本質は見えない言葉、聞こえない言葉にある。
それが大きな力を持っている。
神の力を持っている。
- 光透波。どんな言葉にも、その本質に光がある。
その本質に神がいる。
- 人を励ます言葉にも、人を傷つける言葉にも神がいる。
- どんな言葉にも光を見る、神を見る。
天の意図
- 天の意図ではないことは起こらない。
天の意図でないことをすることは出来ない。
- どんな選択をしても、善悪はない。
正誤はない。
愛がある。
宇宙
- 宇宙は知るものではない。
「ある」ものである。
創造
幻の怖れ
- 怖れを持つと、それは現実のものとなる。
苦しみも自分が好んで創り出している。
その原因は怖れであるだろう。
神の懐の中で、何を怖れるというのか。
- あなたを苦しめるものはあなたの外にはない。
あなたの中にあるのだ。内側にある。
そしてそれはあなた自身である。
あなたの中の「愛してない部分」だろう。
あなたの全てを愛する。
- 外側に苦しみの原因を探しても不可能である。
あなたの内側を見る。
真理と照らし合わせて、内側を掘り下げる。
そして怖れが幻であることを学ぶのである。
- 自分でそのことを体験し深く理解することが大切だ。
真実を知ったなら、人に話すことが出来るだろう。
ありがたい学びである。
現実を創り出す
- 大切なことは迷うことではない。
自分に対して許すか許さないかである。
- より高い現実を許すか許さないか。
許せば手に入り、許さなければ手に入らない。
- 実現のために努力が必要だと思えば、努力は必要になり、
必要ないと思えば必要はなくなる。自分で選ぶのである。
- バイキング料理を食べるように、自分の好きなものを食べるのである。
バイキングと違うところは、胃袋に制限がないことである。
想念の胃袋の大きさは自分自身で創り出す。
胃袋は思い方次第でいくらでも大きくなり、小さくもなるのである。
何をどれだけ食べるかはあなたの選択次第である。
- 目の前に無限の種類の料理が並べられている。
どれを食べるのも自由自在、いくら食べても自由自在。
それを知った上で美味しいものを食べるのも、
あえて食べないのも自由自在なのである。
- 全ての自由が保障されている。
- あなたはあなたが望む現実を創り出すことができ、手に入れられるものに限界はない。
時間枠
- 遅かれ早かれの時間枠の中で、あなたが持っていないものはない。
あなたは全てをすでにもっている。
天国と地獄
- 悲しみの人をいくら演じても、さらに悲しみの人になるだけである。
喜びの人であればますます喜びの人になる。
- 肯定的な明るい思いの中に生きよう。
ますます肯定的で明るくなるだろう。
- 悲しみの人であるという事は、
あらゆるもののマイナスの面に焦点を当てているということである。
喜びの人ということは、
あらゆるもののプラスの面に焦点を当てているということである。
- 天気がよいことを喜ぶ人もいれば憎む人もいる。
雨が降ることを喜ぶ人もいれば憎む人もいる。
コップ一杯の水の中に天国を見る人もいれば、地獄を見る人もいる。
- 天国と地獄は自分の内に存在するのである。
人はそれを自由に選択できる。
- 喜びの人であろうとすれば、全てのものに天国を見る。
あなたは天国を生き、全てが天国になる。
努力
- やりたいことは何かを見極める簡単な方法は、努力を感じるかどうかだ。
やりたいことをしているときには、努力も時間も感じない。
また、無理に起こしている行動には、努力や忍耐を感じるだろう。
信頼
- 期待は宇宙を信頼しないことからくる。
心配は宇宙を信頼しないことからくる。
努力は宇宙を信頼しないことからくる。
苦悩は宇宙を信頼しないことからくる。
- 宇宙を信頼しありのままでいる。
それで全てはパーフェクトである。
宇宙に一切の無駄はない。
宝石
- 人生は宝石に満ちている。
あらゆる時間あらゆる空間に宝石が落ちている。
それを見つけるのはあなた自身である。
見つけた宝石の数だけ宇宙は調和する。
タイミング
- 「待つ」ことと「行動する」ことはともに重要である。
- そのタイミングは天が知っている。
宇宙は完璧に動いている。
謙虚
- 謙虚とは肯定的であると確信して「行動する」ことである。
善悪
- あなたが肯定的な結果を創り出せるかどうかは、あなた次第なのである。
- ある行動によって得られた結果の意味は固定することはない。
決められた善の結果を得る事象とか、
悪の結果を得られる事象というものは存在せず、
ただあなたが善を生み出すかそうでないかである。
- 三次元世界の中に。全員の100%合意による善悪の基準というものは存在しない。
それぞれの支持の割合の多い少ないはあっても、
それは統計上のデータに過ぎず、
善悪そのものの客観的価値を示すものではない。
- 善とは自分にとって善いものであるかどうかである。
自分にとってというのはエゴにとってではなく、良心にとってである。
- 自分の良心にとって良いことは善である。善をはかるのに他の基準はない。
- 善悪の価値判断はそれぞれの中にあり、
それを自分の魂の学びにどのように生かしていくかである。
- たとえあなたがどんなに自信を持って善だと信じる行動をしたとしても、
それを悪だとみなす人はいるのである。
またその逆もあり得る。
そしてその二つのどちらが「正しい」かをはかる外的な物差しはどこにもない。
- 自分が善であることを人に説得する必要はない。
他人に悪であることを言い聞かせる必要はない。
- 善悪というのは、実は一つのものである。
それをそれぞれがどのように呼ぶかである。
ある一つのものをある人は善と呼び、ある人は悪と呼ぶ。
- その一つのものの本当の姿は無色透明中立である。
それは善と呼ばれた瞬間に善となり悪と呼ばれた瞬間に悪となる。
神が決めた善悪の基準というものは存在しない。
- 善悪とは分離したものではなく、一つであり、
あなたが信じた善を表現するかどうかなのである。
- 自分が善であると信じて、本心から「良かれ」であると信じて行動することは、
その結果如何に関わらず善であると信じて良い。
- 「全員が間違いなく善と感じられる真実を」というのは矛盾している。
それぞれには千差万別の学びがあるからである。
- 人間界においては、
無色透明のものを白と見る学びをしている人もあれば、
黒と見る学びをしている人もある。
青や赤と見る学びをしている人もある。
そしてそれに上下はない。
- 真理は一つだが、その真理に至るまでの真実は無数に存在する。
- だからあなたが行動するときの判断材料というのは、
あなた自身にとって、あなたの良心にとって、
本当に善であるかどうかだけである。
- 自分の回りの全ての全てを善にする。それが出来るのはあなたである。
中立
- 人が行えることは、中立なことだけである。
- 人が神の許しを得ずに、勝手に「善いこと」を行うことは出来ない。
勝手に「悪いこと」を行うことは出来ない。
- 中立な状況にどういう定義づけをするかである。
善を定義づけ、喜びの中で天国に生きるか。
悪を定義づけ、罪悪感の中で地獄に生きるか。
- 人は善悪を知らない。
- 人は愛の存在である。
- 人は神である。
何かをしている
- 何をしようかと、なぜ悩んでいるのか。
- 何かをするのではなく、あなたはすでに何かを「している」。
調和
理由
- 調和の行動をするのに理由は必要ない。
- 霊的自負心で今を我慢したり、
調和の使命を果たすのだからと三次元的とらわれを捨てようとする。
神が言うから、こういう霊的法則があるから・・・
- 理由には義務感や特別意識がある。
その根本に「わたし(自我)が」がある。
- 使命がとか法則がとか義務感や特別意識あるいは犠牲意識など、
理由や言い訳がついているものに自他の同一はない。
自分と神と人とを完全に分けている。
- 調和の行動をするにはリラックスし、素直であれば良いだけである。
理論・理屈は必要ない。
- 霊的自負心などの自我から逃れるには、反省と内観、そして実践。
この繰り返しを淡々と積み重ね、
自分の内側をこれでもかと深く掘って自分自身を見つめる。
これが心を正す最短距離である。
経過を割愛して一足飛びにというわけにはいかない。
- 焦る必要はない。
一歩ずつの前進、毎日を学び、祈り、感謝する。
- 今を大切に生きる、大切に生きた先には光しかない。
安らぎの波動
- すべての人がさまざまな経験を通して魂を進化させていきます。真理を伝えることは大切ですが、それを知ってもまだ間違ってしまう人を責めてはいけません。間違いを経験している大切な信仰の課程なのですから。
- あなたの安らぎの波動の中で、本人が自分の中に真理を見つけるまで辛抱強く待つことです。
- 決して責めたり萎縮させたり心を暗くさせるようなことをしても言ってもなりません。宇宙の法則の中で全ての人が自然に学んでいきます。思い上がりの言葉での強制は不調和を創り出すだけです。
- 学びの課程に先も後もありません。必要なタイミングがあるだけです。自然に任せて下さい。ただ必要なのはあなたの安らぎの波動だけです。
- 一人一人が心と体を調和させ安らぎの波動の中で生活する。その積み重ねが調和の波となって地球全体を覆い、大調和が実現します。
調和不調和
- その結果が調和であるのか不調和であるのかは、人間智ではわからない。
内面の必要性
- どんな「間違い」の中にいる人でも、それはその人の内面の必要性に応じている。もし強引に看板だけを取り替えても、必要性の本質を満たしていなければ、また新たな問題の中に入って行くだけである。問題を先送りすることになってしまう。
祝福
- 問題に直面している人を見たら、同情するのではなく、祝福してあげよう。表面ではなく、内面に光輝く彼らの魂の勇気とその力強さを讃える。そして助けを必要としている人には、惜しみなく力を与える。彼らに貢献したかったら、あなた自身の鏡をきれいに磨き、準備して待つ。
正直
- 人を助ける行動と、人から助けられる行動とはイコールである。
- してあげるもしてもらうもなく、愛があるだけである。
- ありのままで出来ることが最善の行動である。
無理をしようとしたり、出来なかったことでくよくよしたり罪悪感を持つことは善いことではない。
- 出来なかったことが、悪いことや間違っていることであるという証拠はなく、出来なかったことやしなかったことが最大の調和行動かもしれない。
- そしてそうであるという肯定的な現実はあなたのものである。
- ただありのままの自分に正直でありさえすればよいのである。
尊重
- 人にはそれぞれの学び方がある。
たとえあなたがどんなに良いと思うものでも、
その人が今それを必要としないならば、強制することは不調和でしかない。
- 強制することは、その「良さ」を勧めているのではなく、
それとすり変わったあなたのエゴを勧めているのである。
- 善悪はあなたの価値判断の中にあるものではない。
神の光の中に間違っている人は存在しないのである。
- 尋ねてみて、その人がそれを必要とするときには全面的に協力し、
そうでないときには黙っている。それが人に対する最大の奉仕である。
- その人の学び方を尊重することが、調和の行動の基本である。
自由を与える
- すべてのものに自由を与える。すべての状況に自由を与える。
すべての人に自由を与える。
- 与えるものが返ってくると言うのは宇宙の基本原則である。
自由を与え、あなたは自由になる。すべてが自由になる。
- 自由とは調和の姿である。
無
- 調和がなく、不調和が無くなったところに、神に帰る道がある。
選択の究極は、すべてを同時に選択することである。
- 調和を選択することは、一方で不調和を創造している。
調和がある限り、不調和が存在する。
調和の実体
- 調和不調和という言葉があるが、実際には不調和は存在しない。
不調和に見えるものがあってもそう見えるだけである。
神の中に不調和は存在しない。
- 不調和のように見えるものの中に、調和の実体を見いだす。
そして調和だけになったら、もはや調和という言葉は意味を持たない。
- 調和・不調和というのは、人間的な視野の判断である。
神の根元は中立であり無である。そして愛である。
出来る
- 調和が何であるか、神は何であるか、真理は何であるかを知らなくても、
人を愛することは出来る。
神を愛することは出来る。
愛を使うことは出来る。
今ここにある
- 調和はどこに求めるか。それはあなたの内側に求めるのです。外側に求めるのではありません。自らが調和になったとき、あなたの体験する現実は調和しかありません。外側の調和によって自らの調和を得ようとすることは幻想です。外側の調和という概念は存在しません。宇宙に外側はなく、あなたの内側が外側です。
- 調和は今ここにあります。それを見つけるだけです。それを認めて受け入れるだけです。神は調和の出し惜しみはしません。無限の愛がここにあります。調和がないと嘆く人は、それを受け取らないだけです。
- 調和をどこかに探さないで下さい。ここに見つからないものをどこかに見つけることは出来ないでしょう。
- 全ては「ここ」にあります。天国は「ここ」にあります。神は「今」「ここ」に「あります」。
知識
薬
- 混乱したり自暴自棄になったりする。
それもまた学びであるが、
もし自分の内なる神を信じきっていたら決してそうなることはない。
- 今まで知識として多くのことを学んだ。
それによって魂の覚醒は進歩した。
しかしその反作用として知識によるとらわれが染み着いた。
知識を自分の血や肉にしたなら、言葉や形としての知識は捨てるべきである。
- 神を知識で捉えようとしてはならない。遠ざかるだけである。
- 知識は手段であって本質ではない。
知識によるとらわれは良心に蓋をしてしまうだろう。
- 悩み苦しみを知識だけで解決しようとしても無駄なことである。
心に響かない上っ面だけの知識は毒になっても薬にはならない。
それでも知識を頼ったなら、知識の魔の世界の住人になる。
- 知識は確かに初めのうちは薬の役割をする。
しかし薬を多用したりそれにばかり頼っていると、
どんな優れた薬であっても深刻な副作用をもたらす。
そのことを十分理解した上で真理知識を活用する。
あるがままの境地
- 釈迦はマイナスを取り払おうとした。
そして数多くの超能力を得ることが出来た。
しかしそれだけのことだった。
- 最後にたどり着いたのは「取り払わなくて良い」ということだった。
「あるがまま」を知ったのである。
- マイナスと戦うことは、戦う相手を自分自身が創り出すことになる。
つまり取り払おうとして、同時に創り出してしまうのである。
その矛盾から得た言葉が「中庸」である。
陰と陽のバランス。
- 大切なことはマイナスを取り払うことではなくて、
マイナスは「取り払える」と知ることである。
- それがあるがままの境地だろう。
愛
愛の実感
- 愛さなければという思いは愛から遠ざかる。
愛そうとしたときそこに愛はなく、
愛を探そうとしても見つからない。
愛は理屈では捉えられない。
- 誰かを愛していると実感しているのならその愛は偽物になる。
愛は自分で実感するものではない。実感しながら行動するものでもない。
人を愛そうとすればエゴが湧き出してくるだろう。
- 愛は神に身を委ね素直になってリラックスすれば自然と湧き出してくるものである。
しかしそれを本人が実感することはない。
- 自分が愛を出している、愛の行為を行っていると思ったなら、実際にはそこには愛はない。愛を実感しようとするのは愛による見返りを期待している。自己中心的な駆け引きや、自己満足がそこにある。自我のために愛を利用しようとしている。
- 愛という言葉にとらわれてはいけない。
愛があったかどうかはあなたの判断ではない。
他人の判断でもない。
神によって判断されるのである。
だから自分は愛していると思ったり、思われようとしたり、
人から愛の行為を賞賛されたりしているうちは、その愛は偽物である。
- 愛を忘れなさい。
一切を白紙にして神に委ねる。
良心が喜ぶ方向に行動する。
ただただ素直にただただ自然に、生かす行為をする。
喜び
- 「自分にはまだ〜する資格がない」というとき、あなたは自分自身を愛していない。
資格を取り去る外的条件はない。
謙虚さとエゴは紙一重である。
- 何をしても良い。
何をしても良い中から一番したいことを選択する。
ただそれだけである。
- 自分を制限することに真っ当そうな理由を付けてはいけない。
ありのままに行動する姿が最も調和している。それが神の姿である。
- あなたを制限するものは外には何もない。自分の中のとらわれを捨てる。
「〜べきでない」は真実ではない。
「したいか、したくないか」に忠実になる。
- あなたこそがあなた自身のマスターである。
だから自分の人生に起こることはすべて責任をとることが出来る。
- 本当にしたいことをしているときには、喜びしかない。
喜びは神の現れである。喜びこそが真実の姿である。
- 喜びと幸せの中で人生を過ごしている姿こそが神への最大のお返しである。
ありのままを感謝する姿こそが神への最大の奉仕である。
神の中で人生を楽しむ。
条件
- ありのままの自分を愛することは、ありのままの他人を愛することである。
もし自分自身を愛するために条件を必要としたら、
他人に対しても愛するための条件を求めるだろう。
また他人もあなたを愛するために条件を探すだろう。
こういう人なら愛せるが、こういう人は愛せないと、
条件の程度に応じて愛を量ったり比較差別をすることになる。
- ありのままの他人を愛するということは、
その人の本質を見ることである。
うわべの形を見るのではなくて、本質の光の部分を見る。
光に一切の上下はない。光は神そのものであり、
大いなる一である。あなたは神を愛するのである。
- 「〜してはいけない」と自己規制することは他人にも同じ規制を要求し、
その規制にそぐわない者は愛せない条件になる。
規制や戒律で人は救えない。
人を救うものはありのままの偉大さを認めることである。
光を認めることである。
- 光以外のものは幻想に過ぎない。
幻想に焦点を当てず、光の偉大さを見る。
最大の愛
- 今のありのままが、神からの最大の愛である。
過不足のない最大の「良かれ」である。
- 神は必要なことを一秒だって遅らせることはしないし、
必要ではないことを一つだって与えることはしない。
愛ある思考
- 愛ある思考で体と調和しながらの行為でなければ、
もし無理矢理エゴの意志で一時的に何らかの目的を達成したとしても、
それらは灰燼に帰すだろう。
- 愛を送り出し、それが戻ってきたものだけが、自分の本当の「身」になる。
エゴによって創り出したものは、いつかは消える蜃気楼である。
変える
- あなたの目の前に、何かを変えたい人が現れたならば、
変えるべきはその人ではなく、あなた自身である。
- 他人を非難したり、外側に変化を求めることから調和は生まれない。
もし、優しさが欠けているように見える人が目の前に現れたならば、
あなた自身がもっと優しくなって下さい。
- 優しさがないことを責めるのではなく、
あなた自身がさらに優しくなって、
その人が自分自身の中に優しさを見つけるための鏡になって下さい。
愛を使う
- あなたはただありのままに存在して、愛を使う。
あなたのすることはそれだけである。
具体的な活動内容は自然に現れる。
だから何をしたらいいかにとらわれる必要はない。
- イエスがやったこともただ一つである。
- 「愛を使うこと」
愛
- イエスが述べたことは、わたしのように愛を使いなさい、ではなかった。
わたしは愛を使っていて、あなたは愛を使っていない、ではなかった。
- だれもがすでに愛を使っており「今ありのままで愛そのものだ」ということに気づきなさい、であった。
- この世に愛を使っていない人は一人もいなかった。
ただそれに気づいていない人がいただけである。
- 人類はこれまで二極性の惑星で、一方を善とし一方を悪として、
愛があるかないかの区別の中で学んできた。
- しかし実際に存在したのは愛だけであった。
この世に存在するもので、愛でないものは一つもなかった。
万象万物すべてが愛であった。たとえ人を傷つけるような行為であっても、
その本質は愛そのものであった。
- これから一極性の時代に向かうにあたり、
いわゆる悪として定義づけられてきた愛の使い方はその必要性を完了し、
愛はいわゆる善と定義づけられてきた方向に集約される。
- あなたが愛を使うということは、
この一極性の時代の愛の使い方を実践することである。
- あらゆる存在は愛し合うことしか考えていない。
癒し合うことしか考えていない。
助け合うことしか考えていない。
自他の区別を持ってはいない。
- 今この瞬間に存在するものは、愛だけである。
- これからの時代はだれもがこの本質に気づくようになる。
- 神になる。
内なる愛
- 人を見るとき、その人の表面的な部分を見るのではなく、
内側の神なる部分を見る。
三次元的な動きや形を見るのではなくて、
内なる神の動きや形を見る。
- 神なる部分はあなたに対して愛しかない。
- 表面的な部分が何を言いどんな行動をしたとしても、
その奥にある本質は、あなたに対する深い愛情である。
- 宇宙にあるものは愛だけである。
それを知ったときに、何も怖いものはない。
愛を使う
- 愛を使うといっても、
愛は必要なときに机の引き出しから出したり引っ込めたり出来るものではない。
- あなたは愛の行動ではなく、愛の流れになる。
- 愛の流れになるには、あなた自身を愛することである。
自分を愛した分だけ他人を愛することが出来る。
- 自分を愛して初めて、愛を使うことが出来る。
- 愛はどこかに特定の人や物に向けて使おうとして使うものではない。
- 自分が愛そのものであって、そして「ただある」ことが、究極の愛の使い方である。