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波動
選択
- 安らぎの波動は、言葉や表現方法の中にあるのではなく。
- それを現す人間の心の中にある。
- だから言葉を選択するよりも、心の在り方を選択する。
潤滑油
- 伝導をするときに、真理の言葉を述べる必要はない。
- なぜなら全ての人が自らの内に真理を持っているからである。
- 自分の内側の扉を開けるのはその人自身である。
他の人が開けるものではない。
開ける手助けはしても、開けるのは本人の意思にまかせる。
- あなたがすることは、扉を開ける潤滑油の役割である。
- 潤滑油となるものは、愛の波動、安らぎの波動、優しさ温かさである。
語る
- 言葉はどこで語るか。口ではない。頭脳ではない。
ハートで語るのである。
- 必要最小限の言葉が、最大限の調和をもたらす。
- 言おうとしない、語ろうとしない、説得しようとしない、言葉を使おうとしない。
- ハートから神の滴としてこぼれ落ちたものだけを言葉として使う。
- 語ろうとして語る言葉は自我の言葉である。
- ハートに自分の口を使ってもらう。
自然にありのままにリラックスして、静かに語る。
感情
- 悩みがあっても、苦しみがあっても、迷いがあっても、
それを自動的に否定的感情に変える必要はない。
悩み苦しみ迷いなどが否定的感情とイコールであるというのは、幻想である。
- 「悩み」という名前の感情。「苦しみ」という名前の感情。
「迷い」という名前の感情。
どんな不快な感情にも、喜びをもって肯定的感情として向き合うことが出来る。
暴力
- 人と人との関わりを見るとき、目に見える行為を見ない。
耳に聞こえる言葉を聞かない。
そこに込められている想念を見るのである。
- 暴力というのは、見た目の力の大小ではない。
聞こえる言葉の内容ではない。
- 強く叩いても強く言っても、
そこに込められている想念が愛情に根ざしたものならば、
それは暴力とは言えない。
また、弱く触れても弱く言っても、あるいは何もしなくても、
たとえ口先で体裁のいいことや励ますようなことを言っても、
そこに否定的な想念があるならば、それは暴力である。
- 暴力は、それを振るった相手と同じように自分自身をも傷つける。
見える行為がどうであったかなどという言い訳やごまかしは通用しない。
想念は正確に反映される。
カルマの法則は、見えるものにではなく、そこにある想念に対して働く。
- 三次元世界において見えるものはすべて幻想であり、
見えない心の部分のみが真実である。
- そしてさらに大きな真実とは、
人と人との関わりにおいて、傷つけ合う否定的な想念も、
癒し合う肯定的な想念も、その全体像の本質は愛である。
思いを創る
- 自然との調和、身体との調和、人間との調和、
それらに対しての方法論は無意味です。
知的方法で手段を探しても答えは見つからないでしょう
- あるものは一つだけです。「思い」。想念の在り方です。
- 自然との調和のために何をして、体との調和のために何を食べて、
人間の調和のためにどんな規則や法律を作って、
これらはみな無意味になるでしょう。
少なくとも先に行うことではありません。
この世に実際に存在するものは「思い」だけです。
それ以外は幻想です。
幻想の砂山をいくら積み上げても仕方がありません。
- 調和のために必要なのは思いだけです。
結果的には数々の手段が生まれるかもしれないし、
生まれないかもしれません、しかしそれにはこだわる必要はありません。
要は「思いがどうであったか」だけです。
- 外側に必要なものは何もありません。
必要なのはあなたの思いだけです。あとは自然に出来上がります。
あなたは外側に何かを創ろうとしない。
外側の何かを変えようとしないことです。
- 外側には何もありません。
あなたが管理するものは、あなたの思いだけです。
調和の世界を論理的思考で創ろうとしても無駄なことです。
調和の思いを創るのです。
調和の思いを創れば調和の世界は自然に出来上がります。
- あなたとは「思い」です。ここに存在するのは「思い」だけです。
神の道具
道具になりきる
- とらわれなきところに道は開く、一切が無のときに扉は開く、
リラックスして身を任せたとき心が開く。
- たとえ仕事であっても、仕事をしなければと思えばそれはとらわれになり欲望になる。
- 自分では正しいことのつもりでも、その裏側に自我の理由が隠れ潜んでいる。
- 自然体の中での行動こそが、調和の道である。
- 仕事をしようとしない。
善意の行動をしようとしない。
光の行動をしようとしない。
しようという思いやとらわれの中から真実は生まれない。
- 良心の声なき声に耳を傾ける。
そしてリラックスの中で使ってもらう。
- 肉体的厳しさの中で自己満足することが修行の姿ではない。
修行とは、とらわれなき心の継続を言うのである。
- しようという思いの中には「自分が」が含まれる。
しかし人間が人間(自我)の力によって人に良きことをすることは出来ないのである。
良きことは神の力を通じてしかできない。
それを自分が何とかしてしようとする思いの中で達成させることは出来ない。
- また「自分がしよう」という思いの本質には、それによる打算や見返りの気持ちがある。
自分がするのではないと言うことを理解していれば見返りを求める気持ちはなくなる。
自分がやっているのではないから責任を取ったり心配する必要もないのである。
神に任せて自然の状態で生きる。
- 「自分」という自負心にとらわれている限り、道具としての行動は出来ない。
- そしてこれらのことも一度頭にインプットしたら全て忘れてしまう。
- 自分も他人も神も何もかも無くなった状態で、
真っ白な状態で、意識の中心からくる思い、
すなわち良心の声なき声に耳を傾け、一瞬一瞬を生きるのである。
- あなたがすることは、祈り、そして後はリラックスな状態で良心の声に従うことである。
ただただ素直に
- 神の行為に対する評価がある。
評価とは何らかの現象が起きたときに、
それが自分にとってどんな良いことなのだろうかという期待である。
自分が信仰の中に生きているので見返りがあるだろうという期待である。
- もちろん良いことしかない。
そうであるが、それがとらわれになっていると、
自然体ではなくなり、素直な行動は出来なくなる。
- 人と話すとき、良いことを喋ろうとか、ためになることを喋ろうとか、
そういうとらわれがある。
そこにもやはり神の道具という自負心があり、気負いがある。
素直さを無くしている。
- そしてその自負心が満たされないと、混乱し他を責める。
思い上がりの構図が出来上がる。
- 神の道具であると言うことは、特別意識を持つことではない。
差別意識を持つことではない。
人を諭そうとか救ってあげようとか、そういう自我の期待を持つと逆の結果が現れる。
- ただただ素直に。それだけでいい。
自然に愛する
- 役割とか、使命とか、法則とか、そういうことに気負わずに、自然に人を愛する。
- イエスや釈迦や多くの先輩方には気負いがあっただろうか。
救わなければとか神の掟とか、使命や役割とか、
そういう理屈よりも彼らはただ人を愛するから行動した。
- 神に委ねたとか、あらゆる苦難を乗り越えて人のために尽くしたとか、
それは後から考えた評価で、その時はただただ素直に愛した。
それだけである。
- 難しい理屈は必要ない。
自他同一もそれを考えている内は、分かれている状態だろう。
- そこにわたしが何かをしているという思いはない。
呼吸するときに呼吸にとらわれるだろうか。
呼吸するようにただただ自然に行動する。
- 委ねるというのはそういう状態を指すのである。
頭に神の法則や理屈が無く、真っ白で素直な状態。
神よ神よというかけ声はいらない。
それでは自分と神を分けている。
自分が神になったとき、神よという必要はない。
- 神があって神が無く、自分があって自分が無い。
- とらわれのない、ただ思いの中に自然に暖かい愛の気持ちがある状態。
そのときあなたは光になり委ねたことになり神になるのである。
条件
- 行動に条件を付けたら、それは偽物になる。
ここでなければ、あれがなければ、どうしなければ・・・。
一見そうした方がうまく行くように思われる。
しかし実際はある条件が満たされた途端、
次の条件欲が沸き上がってきて無限の欲望地獄に堕ちていく。
- 条件は怠け心の欲望の魔がもたらすものである。
放っておくとどんなことにも条件を付け、
何一つ行動できないようになってしまう。
- 欲望の魔はいつでも心の隙をつくように虎視眈々と狙っている。
それにのせられてはいけない。
欲望に身を任せた先に明るい未来はない。
- 本当に何が必要かを考えてみる。
そうすると必要だと思っていたものでもほとんどのものが必要なく、
言い訳の道具に過ぎないことに気がつく。
- 足ることを知る。
こうして生かされている自分を知る。
その感謝を考えたとき、条件は幻となり悪い夢から目が覚める。
- 今の自分の環境が神に与えられた本当にありがたいものだと気づいたとき、
全てが輝き、生かされる。
- 感謝の生活の中にどんな条件が必要だろうか。
生かされているわたしにどんな条件が必要だろうか。
必要なものが過不足無く与えられている。
あとはそれぞれを生かすのみである。
- ただただ感謝しかない。
光の発信
- 出来る出来ないは全て自分が創り出します。
調子がよいとか悪いとか、気分がよいとか悪いとか、
運がよいとか悪いとか、やる気が出るとかでないとか、
すべてあなた自身の思いによって形成されているものです。
- 思いのエネルギーはあらゆる環境を創り出します。
良い環境も悪い環境も全て自分によって創り出されるものです。
- 悪い環境にいる人は誰のせいでもなく自分自身が望んでそこにいるのです。
孤独だ孤独だと思えば孤独な環境が現れます。
無理だ無理だと思えばどんなことでも無理になります。
- 人生を生きていく上で明るい思い肯定的な思いは欠かせません。
自分だけのためではなく、良き思いは回りにも良き影響を与えて行くからです。
- 全ての人が良き思いに包まれたときに完全大調和が実現します。
- まずあなた自身が良き思いの光の発信者になって下さい。
光は次々と伝播し大調和への一歩になります。
光を発するというのは、あなた自身が良き思いに包まれることです。
- 光は出そうとして出すものではなく、
あなた自身が良き思いの中で安らぎの波動を持ち続けることです。
そうすると神の手によって光は自然と発信されるでしょう。
出来る範囲
- 誰かを幸せにしてやろうという気負いは持たないようにする。
- その瞬間に自分と他人との区別がなくなると、
自分がして欲しいことを他人にするようになる。
そこには人に何かをしているという特別な意識はなく、
自然なままに行動している。
- 気負いは自我になるので、逆効果になる。
自分はこんなに人のためにやっているのに・・・と、自我の押し売りになる。
人のため人のためと気負い込むと人のための行動は出来ない。
自他の差別がない自然の中に調和の行為がある。
- 事の大小にとらわれず、自分が出来る範囲で行動する。
自分が出来る範囲というのは気負いのない自然な状態である。
人のためも自分のためもない、素直な心のままの行動である。
良心の行動である。
- 行動によって、お互いに大きな学びを得る。
そこに誰が誰のためにというものはない。
ただただその縁を与えて下さった神に対して感謝しかない。
人と会い人と話す
- 人と会う、人と話すというのは、神によって課題が与えられている。
調和の課題である。決しておろそかには扱えない。
- 人と会う、人と話すと言うことは、
自分の「今」と人の「今」がシンクロしているのである。一期一会。
お互いの「今」を生かし切る。
- 人と会い、人と話すときには、その人の思いを考える、
どんな思いでいるのかを心から考えるのである。
そして自分に何が出来るか、何を求められているのかを真剣に考える。
そして調和の行為が出来るように神に祈るのである。
- その人のことを真剣に考えるのなら、
「自分が」などと言っている暇はないはずだ。エゴの出る幕はない。
- 神から与えられた調和の課題。
一つ一つを大切にして感謝してクリアしていきたい。
- 神の栄光が地に満ちるように、一瞬一瞬を祈りの中で生活していく。
人と関わる
- 人と関わるときの基本は、
「誰も間違っていない。誰も悪くはない」ということを心から信じることです。
- 「すべてが一であり、すべてが神である」。
これを理解していないと生かすことは出来ません。
- 人と関わるとき、誰かを救おうとか引き上げようとか、そういうことは考えないことです。
自分の方が優れているとか知っているといった思い上がりになります。
ただあなた自身が安らぎの波動であれば良いのです。
- あなたがあなた自身を愛し、愛が映る鏡となって人と関わればそれで十分です。
言葉で責めたり説得したり非難したり無理矢理動かそうとする必要はありません。
- 百万の言葉よりも愛の波動、安らぎの波動です。
- 理屈をどんなに並べ立てても、調和からは遠ざかる一方です。
- 求められたときには、あなたのありのままで出来る範囲で誠心誠意対応して下さい。
しかし真理の押し売りのようなことはしてはいけません。
それぞれの人の学びの課程を無視するようなことをすべきではないのです。
ただただ自然に、導きのままに接すればよいのです。
- 難しいことはありません。これまで学んだ通り、
「水の流れのように」生きればよいのです。
「何かしよう」という気負いはいりません。
あなた自身が神を現すことが出来るように生きることがなによりです。
あなた自身を愛し、あなた自身が愛になることです。
その生き様が調和の行動になります。
調和の行動というのは外部に働きかけることよりも、
自分自身の生き方を問われているのです。
行動はあくまで自然でなければなりません。
人のためと思ったならば自我が出ます。
あるがままでなるようになりますから、それに素直に従って下さい。
- 調和の行動をするなら、何かをしようとしない。
その瞬間に生き、良心に従う。
あなた自身が愛となり、あるがままにまかせるのです。
- 人と話す前には祈りの時間を作って下さい。
まずここから始めることです。
強制と信頼
- 「しなければ」ではなく、あなたの「したい」思いに忠実になる。
- 自分を強制することは、他人をも強制することになる。
- 自分の思いを信頼し、他人の思いを信頼する。
光の活動
- あなたが怖れることは、人にもその怖れを伝達する。
あなたが安らぐことは人にもその安らぎを伝達する。
- あなたは鏡である。光を映す鏡でありたい。
- 人に調和を与えるのなら、あなた自身が調和していることが大前提である。
人に勇気を与えるのなら、あなた自身が勇気を持つことが大前提である。
人に信頼を伝えるのなら、あなた自身を信頼することが大前提である。
人に愛を伝えるのなら、あなた自身が愛そのものであることが大前提である。
- 否定的な思いを通して、肯定的な活動は出来ない。
光の活動は光によってなされるのである。
直感と意志
- 直感は大切だが、それにばかり頼っていてはいけない。
直感を魔法のように考えて、自分の意志を閉ざしてしまっては正しい方向には向かない。
- 直感と意志、この二つが調和されたところに本当の道がある。
実践
- 真理や新しい考え方を伝えるというのは、言葉や理論理屈で伝えることではない。
- 困っている人や寂しい人をあなたの明るい波動で力づけたり、
助けが必要な人に力を貸してあげることだ。
- 真理は言葉で伝えなくても、全ての人はすでに知っている。
ただ使い方がわからなかったり、使うことを怖れているに過ぎない。
- あなたがすることは、それを自ら使ってみせて、
怖れなくても良いということを。実践してみせることである。
真偽
- 真理は一つだが、それに到達するまでの真実は無数にある。
- ある人にとっては「黒」がその時の真実であり、
ある人にとっては「白」がその時の真実になる。
- そしてそれらがその時のそれぞれの人にとっての真理への最短最善の真実である。
- 真を知るために偽を調べている人に、真を押しつけてはならない。
押しつけた真は真とはならない。
- 人に話すときは、相手の真実を尊重し、相手が生かせる真実を伝える。
作用反作用
- 作用反作用は神の摂理であって、善悪ではない。
反作用に臆病になることはない。
- 直感が現れたなら、果敢に挑戦する。
正しければ調和である。
もし間違っても、それを学びの糧とすれば調和となるのである。
- この体験の中で直感は研ぎ澄まされ、神の道具として大きく成長する。
イエス
- どうしたらいいだろうと迷ったときには、イエスならどうしただろうと考えてみる。
- イエスを通して高次元世界との通路を開き、神の道具としての行動をスムーズにする。
- ただし「イエスなら」を問うとき、その答えを頭で求めるのではない。
- 目的はイエスを演技することではなく、イエスと自分を一体化させることである。
- 神の子を自覚することである。
- そして「イエスなら」はなくなり、あなたはイエスそのものになる。
予行演習
- 未来のある時点になったら、何て言おうか。
何て行動しようか。何て・・・しようかと思いを巡らし、頭の中で予行演習する。
- そのときあなたは現在に生きてないし、その未来になったときにも今を生きてないことになる。
- 予行演習の本質は、自己を顕示することや、自分を守ろうとすることに関係している。
- 聖人のようだ、悟っているようだなど、他人よりも優れているかのように見せるためや、人から尊敬されるために演技に思いを巡らすのである。
- また、他人から傷つけられないようにとか、討論に負けないようになど、自分を閉ざして防御線を張るためにシナリオに思いを巡らすのである。
- これは自分は力がないのではないかという無力感や、ありのままでは充分ではないのではないかという善悪に分けた価値判断に根ざしているものである。
- それらはすべて幻想である。その瞬間において人は常に完璧である。
なぜなら人は神であり、神でない行動は出来ないからだ。
- 未来を恐れたり、自他を分けて自分を守ろうとしたり、
高く見せようとするために思いを巡らす行為はもうやめよう。
- 神を信頼して、今の瞬間に生きるなら、何の心配もいらず予行演習の必要はない。
- ありのままで存在すればよいのである。
- そしてそうであることがあなたの魂に忠実な未来への扉を、
より早くスムーズに開けるのである。
- 恐れた先の行動に調和された結果はない。今の瞬間に何の問題もない。
- ただ神が存在するだけである。
導き
- 神の道具であることと、導きの操り人形であることとは意味が違う。正反対である。
- 神の道具であることは、自我を滅することであっても、自己を放棄することではない。
素直になる
- 何をしたいかを問うて、何もしたいことがなければ、何もしないことがしたいことなのである。
- 自分に何かを強制せずに、その思いに素直になる。
鏡としての自覚
- 勇気は与えるものではない。希望は与えるものではない。
安らぎは与えるものではない。愛は与えるものではない。
強さは与えるものではない。
- 与えなければならない「足りない人」は存在しない。
- あなたは光を反射する鏡としての自覚を持ち「ただある」ことである。
- そして人は自分がそれらすべてを「すでに持っている」ことに気づくだろう。
悟り
悟り
- 魂はやがてイエスになり釈迦になりさらに進化した宇宙意識になり、
さらにどんどん進化して神の本源に近づき、
最後には完全無垢で透明になり無に戻る。
そしてすべてが0から始まる。
これが一番大きな輪廻転生のパターンである。
- 宇宙には始まりも終わりもなく時間もない。
悟りというのは直線的な時間の方向にはない。
どこか未来にあるのではない。
あなたはすでに悟っている。
- 輪廻転生は始めと終わりを必要とするから、
実際には幻想であるとも言える。
- すべては一度しかなく、大いなる一が一つあるだけである。
善になる
- すべてが善になったとき、
善悪という価値観は存在しない。
- 悪を定義づけている間は、その反対側の善も本物ではない。
善にとらわれているということは、反対側に悪があるということだから、
善は全体像ではないことになる。
- 善悪がない状態が、「善」である。
普通
- 全ては普通である。上に見えたり、下に見えたりするものは、
エゴのもたらす幻想である。
- 世の中を見るとき、誰かを見るとき、少しでも上下の区別で見ていないか注意する。
- 「あの人は学びが足りない」とか「遅れている」とか、普通よりも下に見る判断を下してないか。
- 逆に、「あの人は特別に優れている」とか「聖人である」とか、普通よりも上に見る判断を下してないか。
- また「自分はどちら側だろう」と今を上下で判断していないか。
そして上であろうとして必死に飾る努力をしていないか。
そのために膨大なエネルギーの浪費をしていないか。
- 幻想を捨て、真実の姿を見る。あるのはたった一つ。
「大いなる一」という「普通」である。
悟りのバランス
- 過去の先輩たちは、苦難をもって成長し悟りを見つけた。
- 現代のわたしたちは喜びをもって成長し悟りを見つける。
- バランスがとれ、二極性の時代は終わりを告げる。全てが一つの時代が始まる。
悟りの道
- 悟りの道とは、そのままで何もしなくて良いと知ることである。
神のなか
- 神のなかで、どんな完璧さを求めるのか。
- 神の中で、どんな不完全さを怖れるのか。
両面
- 人は、肯定的な面と否定的な面の両面を持っている。
- 人はその両面を持って一つである。
その両面をして神である。
どちらかが欠けていては不完全であるし、そんなことはあり得ない。
- 肯定的な面のみを賞賛し、否定的な面を忌み嫌わない。
それをただ「ある」と認識する。
避ける必要もごまかす必要もない。
捨てる必要も戦う必要もない。
あって良いのである。
自分の一面としてみる。
愛を持って全てを許容する。
- 人は、肯定的な面が全てではない。
否定的な面が全てではない。
どちらかだけを見て一喜一憂する必要はない。
どちらかだけに執着する必要はない。
両面を持って一つ。
ありのままで神であると知る。
- 両面を知って初めて、神としての選択がある。
奉仕
奉仕
- 奉仕というのは、「わたしが誰かに奉仕する」というものではない。
そういう感覚では奉仕は出来ない。
自他の分かれた状態では本当の奉仕は出来ない。
自分と他人の区別がなくなったときに本当の奉仕が出来る。
- わたしが誰かのために何かを行うというのは、そこに自我やエゴの思いがある。
「自分はどうでも良いから人のために」というのは偽善である。
自分を大切にせずに他人を大切にすることは出来ない。
- 大いなる一になったとき、「自分も」も「他人も」もない。
ただ「大切にする」が残るだけである。
そして本当の奉仕が始まる。
- あなたは本当のあなたのために何を奉仕できるだろう?
本当にしたいか
- まず最初に「自分は本当にそれがしたいか」を問うことである。
その確信が持てずに行動することは、
どんなに美辞麗句に飾られた名目であっても、
ただ不調和を広げることになるだろう。
奉仕の本質
- 奉仕の本質は、奉仕を「してあげる」ではなく、奉仕を「させてもらう」である。
- その人のおかげで奉仕する機会に恵まれる。
その人が断ったら奉仕したくてもできない。
奉仕を通してたくさんのことを学ぶことが出来る。
その材料を提供して下さる方々には感謝しかない。
人のため
- 人のために何かをしたかったら、何かをしたいと思わないことだ。
ただその瞬間の縁にありのままになる。
神の子としてありのままになる。
奉仕のシステム
- 人が道を見失うと、宇宙の奉仕のシステムが働き出す。
誰かがどこかでその人のために自分の身を呈して奉仕する。
- 奉仕のシステムでは、自分の人生や学びの機会を削ってでもその人のために奉仕する。
たとえ嫌われようと傷つけられようと、無償の愛で奉仕する。
その人を気づかせるためにどんな役割でも喜んで担う。
そしてそれらは表面には見えず、多くの場合、奉仕している方もされている方もそうとは気づかない。
- しかしその奉仕に寄り掛かってぼーっと生きていてはいけない。
また奉仕されたことに罪悪感をもってもいけない。
- 人はみな無数無限の奉仕の中で生かされている。
- 一日一日一瞬一瞬を大切にする。
- 感謝する。
イエスである
- イエスであるなら、イエスであろうとする必要はない。
対等
- 行動するときの基本は、外側の何かを権威者にしないことである。
これは高次の宇宙存在に対しても同様である。
- してあげるとかしてもらうという発想では、大いなる一はない。
- 自分は誰かを問う。
- 感謝とは従属関係の中にあるのではない。
対等のパートナーシップを理解する。
責任
- あえて「責任」という言い方をするならば、
地球環境を破壊している人や、
自我我欲のままに生きたり争いや混乱などの問題を巻き起こしている当人には
「責任」はない。
- あえて「責任」という言い方をするならば、
それら不調和に気づいた人に「責任」がある。
- 不調和を創り出している人は、
彼らの学びの段階における彼らの真実を表現しているだけである。
善悪はない。
- 問題解決は、それを起こしている人ではなく、
それに気づいた人の責任である。
- 誰かを責めることによって問題は解決しない。
自分の学びの責任を他人に転嫁してはならない。
- 他人は存在しないのである。
欲
- 「人のために尽くしたい。地球の平和・調和のために尽くしたい。自分の使命を果たしたい」という「欲」に気をつける。
- 欲望に根ざしているものには神のエネルギーは届かない。