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再臨
キリストの再臨
- キリストの再臨とは、
イエスが再びこの世に現れるということではなく、
一人の救世主が現れるということではなく、
自分の内なる神我に目覚めた人が現れるということである。
- 彼らはすなわちイエスであり、神である。
- もし神の子として一人の特別な人間が現れ、神と人とを区別したなら、
人は依頼心の固まりとなり、調和の世界は果たされないだろう。
- 全ての人間が神の子であり神であるという自覚を持った人々が現れることが、
まさにキリストの再臨となる。
- 再臨はすでに始まっている。
小さな光の積み重ね
- あなたは大げさなことをする必要はない。
- 身の回りこと、目についたもの、人、縁のあるもの、人、
それらを活かすために全力を尽くせば良い。
- 自分の出来る範囲で光を灯していく。
- たとえそれがどんな小さなことであっても、
神の意を汲んだものであるなら、光は次々と伝播して行くだろう。
その小さな光の積み重ねが、あなたの使命である。
- 結果にこだわらず、今出来ることを出来る範囲で淡々と行っていく。
それだけで良い。
祈り
祈りと思い
- 自我の壁を取り去るのは、苦行や荒行ではない。
- 祈りと言っても、漫然な祈りでは自我は消滅しない
- 思いやりの心、慈悲の心、他人の痛みを自分の痛みとする心、
これらの思いが自我の壁を取り去る。
- どんなに厚い自我の壁でも、愛する思いの前では、氷のように溶け去ってしまう。
- 祈りとは手を組んで目を閉じ、祈りの言葉を述べるだけのものではない。
- 人を愛したとき、万象万物を愛したとき、いとおしく思ったとき、
あなたは神に祈っている。
行動
- 祈り、深呼吸して、肩の力を抜きリラックスしたら、ためらわずに行動する。
そのときの行動は無理なものではない。
- 思いは、行動の中で自然に沸き上がってくる。
何もせずに思いが沸き上がってくるのを待っていても無駄である。
それは怠けの自我に支配された姿である。
- 待っているうちに、ためらっているうちに、自我が暴れ出し、
こだわりや雑音に翻弄され、混乱し、道を見失う。
- 何をすべきかは頭で考えず、行動の中に現れる導きを素直な心で見る。
- 行動の中にこそ偉大な光が降り注ぎ、偉大な示唆が与えられる。
お願い
- お願いがあって、それが一つでも満たされると、
次から次へと新たな欲望が膨れ上がる。
際限のない欲望の罠にはまりこむ。
そして特別意識と不満感のみが増幅する。
- 苦しいとき困ったときに、安易にお願いに走ると、
いつの間にか自我の言葉のみに覆われる。
- お願いすることには、自分は特別なんだという思い上がりが存在する。
特別に扱われるはずだという期待感がある。
自分の行為に対する自惚れもある。
見返りを求め、神と駆け引きをしようとしている。
- それではすべてが偽善となる。
- 真理を学び始め、実践を始めると
プラスの面が増大するのと同時に
バランスとしてマイナスの面の可能性も比例して増大する
このことを知らなければ、大きな過ちに陥ってしまうだろう。
- 自分の欲望を正当化して、「真理の道」という名前だけの魔の道を歩むことになる。
- どんなに辛くても苦しくても、
それは学びのために与えられたありがたい修行であるから、
安易にお願いに走らず、感謝と喜びを持って乗り越えていく。
- 愛しか存在しないのだから。
自他同一
- 人に手を合わせる。感謝の心を持って手を合わせる。人を神と見て手を合わせる。
- そのときこの世には愛と安らぎしかないことに気がつくだろう。
- 心からリラックスし素直になれる。喜びが沸き上がってくる。全てが輝いて見える。
- あなたが神であるように、人もまた神である。そこには一切の区別も差別もない。
- そのうちに「あなた」も「人」も無くなる。全てが一つになって解け合う。
- 人のためもあなたのためも神のためも、一切のとらわれも無くなる。
- 自他同一になる。
必要な縁
- 自分が正しいか間違っているかにとらわれるのではない。
- 相手の幸せを相手の調和を心から祈ったかどうかである。
- 必要な縁が与えられるだろう。
祈り
- 祈りとは祈らなければという義務感から祈るものではなく、
祈りたいという自らの思いで祈るものです。
- 「形」で祈ろうとする祈りは本物ではありません。
自然に沸き上がる思いから祈りを始めて下さい。
- 朝だからとか、教会にきたからとか、十字架の前だからとか、
神棚の前だからとかいう外部の要因で祈るのではありません。
- 愛する思い感謝する思いがふつふつと沸き上がって、
自然の衝動で何のとらわれもなく祈るのです。
- 自然の中の祈りを大切にして下さい。
天の声
- 天の声を聞く最良の方法は、天の声を聞こうとしないことである。
- 先入観を持たず、ただリラックスしている。
信仰心
- 信仰心とは
- 信じている神が何であるかではなく
- どのように信じているかではなく
- 神として生きているかどうかである
自我(エゴ)
涙
- 自我を知る。妬み恨み嫉み、いろいろな感情を知る。
それらに目をつぶっていては、魂の進歩はない。
- 自分の中のマイナスの感情、それをみて愕然とする。
学んだつもりの自尊心が吹き飛び、井の中の蛙を知る。
- 止めどなく涙が流れる。
- しかしそこで弱気になってはならない。
経験を糧とする。自分の弱さを知ることは、強くなるための必須条件である。
足りないところがわかれば、補うことが出来る。
- 全てが大切な体験、ありがたい体験である。
それに関わってくれた人、与えてくれた神を知るとき、生かさないわけにはいかない。
声を聞く
- 学びの課程で、自分を高く見たり、聖人化したり、
特別視したりしないように、気をつけなければならない。
これは安易な祈りや超能力願望をもたらす。
自らを過大評価し形にとらわれ、
謙虚と大きく書いた看板を背負いながら傲慢に生きることになる。
- 神の声と魔の声が入れ替わってしまっていることに気づかず、
自分はある程度悟ったんだという思い上がりが、
神の名において人々に不調和を強制する。
たとえば「人を非難してはいけない」と人を非難するようになる。
- 何度でも何度でも自分を振り返ることが必要だ。
とらわれてないか、素直であるか、リラックスしているか。
- 調和のためという大義名分を作って、自我を満足させてはならない。
良心の声が聞こえるようになると、もっと聞きたいという思いに駆られる。
そして何らかの正当そうな理由を付けて声を聞こうとする。
しかしそれは声を聞くために作った自我の欲望であるから、
良心の声は聞こえず、代わりに魔の声が聞こえる。
そして魔の罠に引っかかり堕落の道を歩む。
- 魔の声は少しずつ巧妙に狂気の世界に誘う。
魔の声は調和や愛というような言葉がどんなにふんだんに盛り込まれていても、
それを読んで心が感動することはない。
「何か違う」というぎこちなさを感じる。
しかし、内なる声なのだからと、深く考えずに受け入れていると次第に洗脳され、
簡単な善悪の判断さえもつかなくなる。
- いつの間にか声を聞かなければ何も行動できないような禁断症状を持つようになり、
魔の下僕に成り下がってしまう。
- 良心の声を聞くことによって、神憑り的になったり、奇異な行動に走ったりすることはない。
人が見て明らかに尋常ではない行為や発言は、魔の声に翻弄された姿である。
- 良心の声によるものは、安らぎであって、
優しさを持ち回りにも安らぎを与える。
その人を見て不快になったり恐ろしくなったり気持ちが暗くなったりする事はない。
なぜならば良心の声とは、全ての人がそれぞれの内に共通に持っている真理だからだ。
神我と自割の割合
- 7つのチャクラをオープンする。そしてリラックス。素直になって待つ。
- 必要なときには神に委ねて自然な流れに身を任す。
行動する前に心がどうなっているかを確認する。
神我が多くを占めれば自然であり、
自我が多く含まれている場合は自然な行動とは呼べない。
- 自分の心を深く掘り下げ、自分の中の神我と自我を確認する。
そしてこの行動は主にどちらのものであるかを問う。
神我が自我よりも少しでも多い方の行動をとる。
自我が多い行動は避けるようにする。
- 完全に神我や自我にシフトした行動というのはほとんどない。
神我と自我の割合を見る。
55対45でいいから神我の方が多い行動を選択する。
その繰り返しによって神我の割合が増してくる。
一歩ずつの積み重ねである。
- もし行動の必要があってどうしても自我の方が多い場合には、
神に祈り自我の思いを消してもらう。
神我と自我のバランスを取り心を正す。
- ただしあまり理屈の積み重ねで神我と自我を考えてはならない。
本当のことは直感で分かるはずだ。
神我は暖かいし、自我はどこか引っかかるものがあるはずだ。
その直感に素直になる。
- どう行動するかは簡単である。神我と自我の割合を感じればよいのだ。
神我は調和を自我は不調和な結果をもたらす。
しかしどちらも学びの上では欠かせないものである。
間違ってしまうのも学び。それを踏まえた上で神我が少しでも多いように選択する。
試行錯誤をするのである。
天からの課題
- 自我が現れる。その引き金になった人や事象がある。それらには感謝しかない。
自我を引き起こしてくれた人には心から感謝の念を送る。
自我を引き起こしてくれた事象にも感謝の念を送る。
- 人によって心が動いた。憎しみや妬み怒り悲しみなど、いろいろな感情に翻弄された。
自我が膨れ上がった。それらの感情を与えてくれた人に感謝するならば、
その人の幸せを心から祈り、プラスの念を送ってあげることが恩に報いる行為になる。
- 自我は押さえつけたり見て見ぬフリをしたりするものではなく、
自我によって心が動いたのなら、天から課題が与えられたと感謝してその課題に真剣に取り組むのである。
いかにマイナスをプラスに転換させられるかがその課題の意義である。
- どんなマイナスでもプラスに転換させられること、
これは調和の行動者として修得すべき必須科目である。
思いのコントロールこそが基本中の基本である。
- 自我は決して敵ではなく悪ではなく、大切な宝玉である。
神我と自我が手を携えたところに魂の大きな学びがある。
ありのまま
- 神我の部分もあなた、自我の部分もあなた、どちらもあなた自身、大切なあなたです。
- どちらかを見て見ぬフリをするのではなく、両方とも大切に扱い愛で包み込む。
- ありのままのあなたを驕ったり卑下したりすることなく、ありのままに受け入れる。
- ありのままのあなたは神であります。何の心配もいらない。生かされ学べる感謝があるだけです。
- 神として自信を持って生きる。
- ありのままに生きる。
取引
- エゴによって神と取引しようとしたり、神を試そうとしたりしないように注意する。
- 自分がある程度学んだ、レベルが上がったという思い上がりが、エゴの引き金を引く。
- これをするからこれをしてくれ、これを見せてくれ、これを与えてくれというような魔の道に入り込まないように注意する。
- 光が強くなれば影も濃くなる、自転車で転ぶのとオートバイで転ぶのとではけがの度合いは違ってくる。
- 進歩したのならばなおさらに気を引き締めることである。
執着
とらわれの鍵
- とらわれというのは、個々の事柄を指すのではありません。
お金儲けがとらわれであるとか、地位や名誉がとらわれであるとか、
貧乏だからとらわれがないとか、そういうことではなくて、
「自分の思いがどうであるか」ということなのです。
- もし貧乏であっても、貧乏であることがすなわち聖であり清貧であるとして形としての貧しさを選択しているのならそれはとらわれになります。
- もしお金持ちや有名であっても、そのことで傲慢になったり差別の気持ちを持ったりせずに全ての調和を考え、生かすことを考え、神への感謝に満ちているのなら、それはとらわれではなく聖になります。
- どういう形であるかではなく、どういう思いであるか、これがとらわれの鍵であります。
ある
- 執着を捨てるとは、執着を捨てようとしないことである。
- 執着を捨てるとは、何かを捨てることではない。ものを無くすことではない。
- 執着を捨てるとは、ものをありのままに「ある」と認識することである。そして「ある」ことに善悪の判断を下さない。
- なぜなら神とは「ある」ということだから。
執着を捨てる
- 神とは「ある」ということである。
- 仏とは「ある」ということである。
- いったい何を捨てようと言うのか。
- 何も捨てるものがないと知ったとき、あらゆる執着は消えてなくなる。
捨てるもの
- 執着を捨てるという執着を捨てたとき、執着を捨てられる。
- あなたに捨てるものは何もない。
管理
- 執着が「ある」と認めれば、それはあなたの管理下に入り。
怖れが「ある」と認めれば、それはあなたの管理下に入る。
統合
- 捨てるというのは、消し去ることではない。統合することである。
今
位置
- 自分のいる位置を客観的に考えてみる。
ここにいるというのは多くの縁と導きによるものである。
今現在いろいろなところにいろいろな人がいる。
ここにいるのはあなただけである。
- その与えられた環境の中で、何を求められているのか考えてみる。
何が出来るのか考えてみる。何を生かせるのか考えてみる。
- そして沸き上がってくる思いに素直に任せる。
時間のとらわれ
- 学びは振幅の中にあります。プラスを学び、マイナスを学び、バランスとなります。
その揺れによって大きな成長が起こるのです。
- 何日であるとか何曜日であるとか何時であるとかにとらわれてはいけません。
あるのは「今」だけです。「今」を生かすことです。
時間を必要以上に気にせず、時間を判断基準にするのではなく、
今何が必要かを基準にして下さい。
- 必要なことは全てあなた自身が知っています。それに素直に耳を傾けることです。
「今」こそが人生の全てです。
今の「今」
- 今の「今」を生かすことが出来なくて、明日の「今」を生かすことは出来ない。
それだけ
- 未来に目を向けず、今やりたいことをやる。瞬間に生きる。
- 瞬間に生きることが、未来においてやりたいことそのものである。
- 未来の自分を見て今を愛さないのではなく、
ありのままの今を愛し生かすことが大切である。
- 必要な段階に必要なものは与えられている。
だから安心して瞬間を生きる。それだけである。
高い目的
- 高い目的はしたいことのなかにある。しなければならないことのなかにはない。
今の生
- ありのままの今を生きる。ありのままの今を楽しむ。ありのままの今の生を感謝する。
- 晴れていたら晴れの日を楽しむ。雨ならば雨の日を楽しむ。
- すべてに大宇宙の深い愛がある。
花壇
- 「将来、充実した仕事がしたい」ではなくて、
「今」に充実する。今のありのままに情熱を燃やす。
今を充実させずに、将来が充実することはない。
条件付きで充実することはない。
今には今出来ることがある。それに充実するのである。
- たとえそれが三次元的物理的成果をもたらすものでなくても、
日常のささいなことや取るに足らないように見えることであっても、
何であっても「今」に充実する。
そして充実して行ったことはすべて輝く神聖な行為になる。
人生を生かした行為になる。神の行為となる。
- お金にならないとか、他人から評価されないからとか、
生産的でないように見えるからとか、
そういう不平不満の思いの中での行為は、神の行為ではない。
また、物理的成果を得ても、他人から名誉や賞賛を得ても、
不平不満の思いの中での行為はやはり神の行為ではない。
- 他人の花壇をうらやむのではなく、将来の自分の花壇を愛するのではなく、
今のあなたの花壇に種を蒔き、花を育て、花を咲かせる。
- 今自分が出来ること、今自分に与えられていることを見て、
今を愛し、今を充実させる。
- 今のありのままを感謝することが、神への最大の奉仕である。
母の乳母車
- 乳母車の行き先を心配して、こっちの道、あっちの道と騒ぐよりも、
目の前の哺乳壜のミルクを飲もう。
母は「今」最も大切なことは、ミルクを飲むことだということを知っている。
- ミルクの成分や栄養バランスを心配したり悩むよりも、
与えられたことを感謝し、喜びを持ってミルクを飲もう。
- 母に全てを委ねて安らいでいる赤ん坊がなによりだ。
母の愛を素直に受け入れて微笑んでいる赤ん坊がなによりである。
今を生きる
- 今を生きると言うことは、今ここにあるすべてのものの「愛」に気づくことである。
ベストタイミング
- あなたは「今」から行動する。遅すぎることはない、早すぎることはない。
それは完全にベストタイミングである。
時動説から思動説
- すべてのものは、あなたが「今」信じている思い、
「今」のあなたの真実によって存在している。
- すべてのものは瞬間瞬間全く新しい。
- すべてのもの、過去の経緯や記憶は幻想である。あるのは「今」だけである。
- 「今」以外は存在したことはなかった。
ここに存在するものは「今」信じているものだけである。
「今」何を信じているかが現実を構成する。
あなたが一直線の時間という軸の中を動いているというのは幻想である。
あなたは一度も動いたことはなかった。
「今」があっただけである。
これからも「今」があるだけである。
- 時間が経過しているのではない。
生まれてからたったの一秒でさえも経過していない。
地球が誕生してからもやはり一秒も経過していない。
「今」あなたが信じている「思いが、次々と入れ替わっている」だけである。
五感を使う
- 中心を見失ったとき、「今」に立ち返る方法は、
大きく深呼吸し、五感を使うことである。
- 今どんな音がしているだろう、今どんな匂いがするだろう、
今どんなものが感じられるだろうと、それらすべてを確認してみる。
- それから行動する。